第九章:名の戻る夕暮れ
拓海は目を覚ました。鼻に、真新しい畳のい草の香りが胸いっぱいに広がったが、自分が今どこにいるのか、まったくわからなかった。 目をひらくと、低い机と、壁にかけられた古い馬具の絵が映った。窓の向こうでは、薄くなった夕方の光がぼんやりと陰り、風にさざなみのような音を立てている竹の葉の影を畳に落としていた。 そうだ、客間だ。瑞希に無理やり休まされたのだと思い出した途端、眠りの底から意識が一気に引き上げられ […]
拓海は目を覚ました。鼻に、真新しい畳のい草の香りが胸いっぱいに広がったが、自分が今どこにいるのか、まったくわからなかった。 目をひらくと、低い机と、壁にかけられた古い馬具の絵が映った。窓の向こうでは、薄くなった夕方の光がぼんやりと陰り、風にさざなみのような音を立てている竹の葉の影を畳に落としていた。 そうだ、客間だ。瑞希に無理やり休まされたのだと思い出した途端、眠りの底から意識が一気に引き上げられ […]
警察が来たのは、通報から三十分もしないうちだった。 最初に真っ暗な山道を上がってきたのは、赤色灯を回したパトカーの光だった。ヘッドライトが長屋門の太い梁を白く浮かび上がらせ、その下に赤色灯を回したパトカーがくぐってきた。 青楓の葉と真っ白な塀、夜露の浮いた下草が、その赤を受けてぬらぬらと色を変える。つづいてもう一台、さらに遅れて鑑識車らしい箱型の車が高台の下まで乗りつけて、車内から何かを取り出して […]
「瑞希、疲れてないか?」 「うん、大丈夫」 川端拓海は岩肌をつかみつつ、もう片方の手で遠い親戚の牧野瑞希の手を引いて、暗い洞窟から姿をあらわした。 鍾乳洞の出口を抜けると、遠くの山の稜線はすでに紫色と赤みを帯びていた。山の上部に居座っている樫の木の群れは頭を夕暮れの色にそめている。空気はさほど湿ってはいなかったが、遠くには切れ切れになった赤い雲が散らばっていた。 裂けた岩肌のあいだから外へ身を滑ら […]
山梨県の旧家・牧野家の敷地の奥には、明治時代に建造された時計台があった。約百年前、当時の当主の妾が炎に包まれて死んだというその時計台は、三十年前に最後の鐘を鳴らして以来、鐘だけは沈黙したままだった。 地方の名家・牧野家の遠い親戚筋の川端拓海と、牧野家の令嬢、牧野瑞希は、幼い頃から惹かれ合いながらも家柄の格の違いと親族の目に阻まれて、公にはできない曖昧な関係を続けていた。 そして年に一度の祭りの前夜 […]