第八章:火の噂

拓海はしばらく広間の端に立って、スマホ画面の中に映っている紙片の写真を見ていた。

牧野家危急の折には、牧野を護りし者の在所を探るべし。
時告ぐるもの、馬の眼を開かん。

時計台であの火だるまを見てから半日も経過した正午過ぎの屋敷には、昼の光が入っていた。
障子越しの明るさは白く、濃い灰色がかった石灯籠の影も、はっきり畳の上まで伸びている。長押が光で縁取られて、仄白く光っていた。

親族たちは、まとまっているようで、まとまっていなかった。
広間の隅で茶を飲む者。
廊下に出て小声で電話する者。
使用人に何かを尋ねては、答えを聞く前にため息をつく者。
警察官の制服が柱の陰に立っているせいで、屋敷そのものが、ひとつの大きな取り調べ室になったようだった。

裕治は山林資産整理帳を調べていた。
明らかに準備をした上で、山にも入っていた。
ならば、祭りの前日に不審な行動をしていたことは、なんらかの意図があったはず。
そうすると、あの財宝伝説も、ただの昔話として笑って済ませていいものなのか。

そう思って、拓海はまず、広間に残っていた年配の親族へ声をかけた。

「すみません。少しお聞きしたいんですが、牧野家に昔から伝わる財宝の話って、ご存じですか」

聞かれた老人は、白髪をきっちり撫でつけた男だった。
さっきまで不安そうに湯呑みを持っていたくせに、財宝という言葉を聞いた途端、目尻に浅い笑い皺を作った。

「財宝? なんだね、川端くん。こんな時に宝探しか」

「いえ、そういうわけでは。ただ、牧野家の記録をさかのぼって読んだのですけど、急に危ないことがあったときの備えがあってもおかしくないかと思いまして」

「牧野家のねえ…」

老人は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに笑いへ戻した。

「まあ、初代様は、明治維新に合わせて家をもり立てようと努力した立派なお方だったからな。時計台だの、舶来の時計だの、宝石だの、なんでも集めたがったとは聞く。なんだったか、目録もあったはずだが…だから、どこかに金を隠しただの、山に埋めただの、そういう話は昔からあるよ。だが、そんなものは、酒の席の与太だよ。川端くんは、知らんかね? 民俗学では、座敷わらしなどがあろう。ああいったものだよ、うちのはね。昔から、繁盛した家には、よくそんな話が出てくるものさ」

近くに座っていた老婆が、親骨に細かな意匠の施された扇子で、口元を隠した。

「若い人は、想像力があってよろしいわねえ」

その声に、周囲の数人が薄く笑った。
事件の夜が明けたあとでも、この家の老人たちは、財宝の話を子どもの夢物語として片づける余裕を持っているらしい。

拓海は、笑い声が薄く広がるのを待ってから、もう一つだけ踏み込んだ。

「では、時計台の妾の怪談のほうはどうですか。あれも、同じような昔話なんでしょうか」

その言葉を出した瞬間、財宝という言葉のときとは違う沈黙が落ちた。

白髪の老人は、湯呑みに指を添えたまま、ほんのわずか視線を横へ逃がした。扇子で口元を隠していた老婆も、今度は笑わなかった。

「妾の怪談、か」

老人は、声を低くした。

「川端くん。ああいう話は、あまり面白がって尋ねるものではないよ」

「すみません。ただ、牧野家の古い記録を調べていたなら、財宝だけでなく、時計台の由来にも関心がありまして」

「由来ねえ」

老人は、障子の外に目をやった。庭の青楓の影が、畳の上でゆっくり揺れている。

「あの女は気が触れていて、自分を正妻と思い込んでいたらしい。二代目の宗胤公を自分の子だと思い込んで、いざ詰められると時計台にこもって火を放ったと。そういう話だ。明治時代と今とでは全然しきたりも違うが、その妾は、いまの言葉で言えば、精神が不安定だったのだろうな。子どものころは夜ふかししているとよく爺様に、夜に時計台を指さすな、妾が焼けた顔で窓から見るぞ、とよく脅されたものだよ」

「名前は、伝わっていないんですか」

「名前?」

老人は、そこで少しだけ顔をしかめた。

「さあ。そういうものは、残らんよ。妾は妾だ。家に災いを持ち込んだ女として語られるだけだ」

老婆が、扇子の陰で小さく言った。

「でも、昔は別の呼び方をしていたと聞いたこともありますわ」

老人が、すぐに咳払いをした。

「余計なことを言うものではない。怪談は怪談だ」

拓海は、その短い制止に引っかかりを覚えた。

財宝の話は笑われた。
だが、妾の怪談は笑われなかった。

「では、またお話が戻りますが、裕治さんが宝について、何か聞いていたことはありませんか?」

拓海が重ねると、一瞬しんと静まった。
名前のせいだろう。
やがて別の老人が、湯呑みを膝に置いたまま「ああ」と言った。

「そういえば先々月だったかな。裕治くんが、清胤公の時代の寄進だの、山の売り買いだのを尋ねていたよ。あれは財宝というより、土地の話だと思ったがね」

「寄進ですか?」

「寺だよ。昔、牧野は寺にずいぶん金を入れた。家の格を作るためには、そういうものも必要だったんだろう」

その言い方には、どこか他人事の軽さがあった。

拓海は礼を言って、そこを離れた。

廊下へ出ると、昼の光はさらに硬かった。磨かれた板張りの床、鏡板に、庭の青楓の影が細かく揺れている。熱をはらんだ風が、目に見えない幽霊かのごとく廊下を通るたびに、廊下の奥に吊るされた古い灯りの冷たい青色の硝子が、かすかに震えていた。

その途中、奥座敷の前で足を止めた。

襖が半分ほど閉められた座敷の奥から、宗一郎の低い声が漏れていた。
拓海は通り過ぎようとしたが、続いて聞こえた住職の声に、思わず足を止めた。

「旦那さまも、御留書の存在はご存じのはずでございます」

御留書という言葉が、廊下の空気を一段冷やした。
名前からして、秘密めいている。

宗一郎の声が硬くなる。

「知っているとも。父から聞かされた。二代目宗胤が寺に預けたという、あれだろう。だが私は読まなかった」

「なぜでございます」

「読む必要がないと思ったからだ。先祖の感傷に付き合っている暇はない。家は昔話で守るものではあるまい」

住職はすぐには答えなかった。
襖の隙間から、黒い法衣の袖と、膝の上でゆっくり蠢いている骨ばった指だけが見えていた。

「昔話で済めば、よろしいのですが」

「何が言いたい」

「寺では、あの方を妾とは呼びませぬ」

その瞬間、宗一郎の気配が変わった。

「…何?」

「少なくとも、二代目宗胤公は、その呼び名をお嫌いになったと伝わっております」

「宗胤が、時計台の女にこだわっていたというのか。かの女は、自らが正妻であると妄執していただけであろう」

「こだわり、という言葉がふさわしいかは、わかりませぬ。
ですが、御留書は決して怪談を広めるためのものではございませぬ。怪談を正すためのもの。名を失った方に、名を返すためのものと聞いております」

拓海は息を殺した。

名を失った方。
あの妾の怪談に、名があったというのか。
手のひらに、じんわりと脂汗がにじんでくるのを感じた。

宗一郎はしばらく黙っていた。やがて、いつもの厳格な低い声で言った。

「今は警察がいる。寺へなど行けん」

「それは、承知しております。お読みになるかどうかは、旦那さまのお心次第です。ただ、昨夜、鳴らぬはずの鐘が鳴りました。火の怪談をなぞるように、人が死にました。裕治さまは生前、古い記録を調べておられたのです。今が危急でないなら、いつを危急と申せましょう」

拓海はそこで足音を聞いて、慌てて廊下の端へ寄り、手洗いへ向かうふりをした。
若い警察官が一人、手帳を持って通り過ぎていく。
それっきり、座敷の中の会話は途切れた。

拓海は手洗いの水道をひねって、べたべたした手汗を水で洗った。
山の澄んだ水はやわらかく、指の股もすっきりとした。

拓海は鏡を覗き込んだ。
ひどく眠そうな男の顔が、見えていた。
まぶたは半ば垂れている。目の下に薄い影があり、髪もばさばさした感じで少し乱れている。もともとそんなに体脂肪があるわけでもないが、より頬がこけているようだった。

これって、酔っ払ったときよりも数倍、ひどい状態だよな、と内心で思ってしまった。

拓海は濡れた手を拭きながら、御留書という言葉を頭の中で何度も思い浮かべていた。

寺、二代目宗胤公、妾とは呼ばない女。
この三つの言葉は、いったい何をあらわしているのだろうか。
曽祖父母は直系だったので知っていたかもしれないが、両親は詳しいことしかしらなかった。
もっと怪談に詳しい誰かに訊かなければ、このつながりがわからないだろう。

広間へ戻る途中、廊下の先で藤井が和樹に話しかけているのが見えた。
藤井は、眼鏡の奥の目に笑みを浮かべて、まるで揉み手でもしそうな勢いでやや前かがみになっていた。
異常事態が起こったにも関わらず、ネクタイの位置を寸分なく整えている。

「和樹さん、こういう時こそ対外的な窓口を一本化したほうがよろしいかと。私のほうでも、多少は――」

「黙れ」

和樹の低い声に、藤井の笑みが半分だけ固まった。

「いえ、私はただ」

「人が死んだ翌日に、うちの看板の心配か。お前、本気でそれを今言ってるのか」

和樹が半歩踏み出して体をひねると、藤井の頬が引きつった。

「そういう意味では」

「どういう意味でも構わん。いいから、出ていけ。親父に取り入れないと見たら、今度は俺か。節操がないにもほどがある」

和樹は冷たい表情で、一歩近づいた。藤井は思わず半歩下がる。和樹の顔色はまだ悪いが、目だけは妙に鋭かった。

「いいか、俺が何も知らんと思ってるのか? お前がバカどもに向かって、広げた地形図を目の前に、さぞかし夢みたいな造成工事の演説を振っていたのはわかってるんだぜ。いいか、次に同じ話をしたら警察の前で、お前がどれだけうちの土地を欲しがっていたか、入念に説明してやる」

藤井は完全に言葉を失った。

和樹はそれ以上相手にせず、廊下を曲がって消えた。藤井はしばらくその背中を見送っていたが、やがて拓海に気づくと、少しだけ笑みを作った。

「いやあ、和樹さんも気が立っているようで。川端さんも昨日からずいぶん言われておられましたし、お気持ちはわかるでしょう」

拓海は立ち止まらなかった。
鼻に突く物言いと、睡眠不足で頭の奥が熱くなっていた。

「同じ側みたいに言わないでもらえますか」

藤井の笑みが、今度は完全に消えた。

拓海はそのまま広間へ戻った。

座卓の端には、誰かが用意した小さな皿が置かれていた。中のあんこが見える薄皮饅頭と、薄い煎餅と、湯呑みが座っている。
事件のあとでも人は腹が減る。
そういう当たり前のことが、いまは少しだけ残酷に見えた。

何気なく反対側へ目を向けると、障子の向こう側に二人の人間の影絵が映っていた。

「裕治さんのかかりつけの歯科医院はわかりますか」

阿部警部の声に、向かい合っている人が腰のあたりで落ち着きなく手首を回すような動きをして、達弥の声が答えた。

「はい。父は昔から同じところに通っていました。インプラントもそこで」

あまり考えたくはないことが進んでいた。
拓海は饅頭を一つ取り、スマートフォンを出した。

瑞希に四時に起きるよう、メッセージを予約する。

《四時。起きられそうなら来い。無理なら寝てろ》

そう打って、予約送信を設定した。画面の数字を見ているつもりだったが、視界にはちらちらと赤色やら黄色やら、変に光がまたたいた。
頭の芯がぼんやりしていた。確認ボタンを押すと、すぐに画面を伏せて、少し目をつむった。

湯呑みを手に取ったとき、向かい側から声がした。

「川端くん、だっけ」

森拓己だった。

いつの間に入ってきたのか、廊下に近い座布団であぐらをかいている。
額のあたりと、顔の側面を親指の腹で押していた。
事件翌日の屋敷で、彼だけが妙に服の皺が少ない。
整った顔に疲れはあるが、目だけは落ち着きすぎていた。

「昨日も今朝も、ずっといるよな。大変だな」

「まあ、帰れませんから」

「あんなときにいたから、仕方ないよな。ところで聞いたよ。広告とかSEOとかやってるんだって?」

拓海は湯呑みを置いた。

「そうですね。小さい案件が中心ですけど」

「いや、今の時代、それ大事だよな。検索って怖いじゃん。一回名前が燃えると、ずっと残る。逆にうまく作れば、ただの古い家でも、観光資源に化けるだろ。見たい人はやってくるんだからさ」

森は煎餅を指でつまみ、割らずに眺めていた。

「旧家、時計台、怪談、祭り。動画にしたら、かなり回ったと思うんだよな。いろいろ編集も加えて発信したら、まあ、何も知らないエンドどもが集まってきただろう。まあ、こんなことになったら無理だけど」

その声には、悔しさよりも、素材を惜しむような響きがあった。

拓海は、胸の奥に嫌なものを感じた。
こいつ、俺と同じくらいの年齢の人を、釣りやすいエンドユーザー扱い呼ばわりしてバカにしているな。

「人が死んでますからね」

「わかってるって。仕事の話として言っただけ」

森は軽く肩をすくめる。その仕草は、路上パフォーマーを思わせる感じで、どこか慣れすぎていた。

「それで、その素材はどんなふうに使われると、思ってたんですか?」

「ま、各場所ごとの紹介じゃないの? ピンポイントでやってくる人たち狙いだろうさ。告知の効率もいいだろ?」

「確かにそうですね。ところで、森さんは、ここの怪談の話は詳しく知っていましたか?」

「さあな。妾が焼身自殺したくらいしか知らないな。今の時代、そんなのを気にしてもなんにもならないだろ。川端くんは、知ってるのか」

「いや、自分も詳しくは――」

そこへ、広間の入口から和樹が入ってきた。
森を見つけた瞬間、わずかに顔をしかめたが、今度は怒鳴らなかった。
和樹は拓海には目もくれず、森の前に立った。

「森」

「はいはい」

「昨日の撮影の件は中止だ。こっちの都合だ。悪かった」

和樹が頭を下げると、森が眉を上げた。

「キャンセル費用は払う。準備費も、必要なら請求を出してくれ。契約分はこっちで持つ」

「ずいぶん律儀だね」

「筋の話だ。せっかく協力してもらったから、当然のことだ」

和樹の声は硬かった。
森はしばらく和樹を見ていたが、やがて小さく笑った。

「了解。じゃあ、後でまとめとく。せっかく一ヶ月半前にもらった時計台の見取り図、いい感じに使えそうだったんだけどな」

和樹は一瞬だけ、森を睨んだ。
切り立った額の下の黒い瞳が、きゅっとすぼまった。

「消しておけ。もう使うことはない」

「仕事用のフォルダには残ってるかもな。朝、SSDを探しに戻ってきたのもそれ関係だし。後で整理するよ」

「早いところ、やっておけ。うちの敷地の建造物だ」

「警察が俺の持ち物を確認してるんだよ。勝手に触れないって」

森は悪びれずに答えた。

和樹は舌打ちをしたが、それ以上は言わなかった。拓海は湯呑みを握ったまま、森の横顔を見た。

森は拓海の視線に気づいたのか、ちらりと目を向けた。
あざ笑うように口元を引いて、薄い笑みが浮かんだ。

「何? 仕事だよ」

拓海は答えなかった。

広間の柱時計が、午後二時を少し過ぎた時刻を示している。外は明るい。だが、庭の白い光が、さっきよりも冷たく感じられた。

拓海は座ったまま、昨夜の光景を頭の中で並べてみた。

十時の鐘が鳴って、露台に立った黒い影。
そして二度目の打鐘の余韻が始まるかいなやというところで、奥深い洞穴のような夜闇に、その人影が鮮やかな橙色の火炎に包まれた。

遠くからなので鮮明には見えたわけではないが、橙色の火炎を背景にした露台の人が、もがくように両手を頭の上に上げたり、苦しむように左右に移動して、露台の手すりに火の斑点が見えたかと思うと、そのまま転落した。

あの死体が自分でやったのでなければ、何者かが時計台にいたことになる。
その者は、人間に灯油をかけて火をつけるという恐ろしく残酷なことをやったわけだ。
だが、自分たち三人は、警察がやってくるまで、時計台の入口そばから動かなかったから、時計台の中から逃げ出すことは不可能だった。

そして時計台までは近くは見えるが、実際は遠い。
広い堀があって、各橋は遠い位置に設けられているし、誰ともすれ違ってはいない。
だとすると、その者が逃げ出すには鍾乳洞しかない。

しかし問題は、逃げ出すことだけではない。
時計台に入るには、屋敷で管理されている鍵が必要だからだ。

そうするとその者か、あの焼死体が、時計台の鍵を持っている必要がある。
だとすると、その者は、この屋敷に滞在している人の誰かとなる。

また、ポリタンクが最上階にあって、露台前の床が焼け焦げていたということを考えると、ドローンなどを使って着火だけはできたかもしれない。
しかし、夜のしじまに、そんな音は聞こえなかった。

それに誰か犯人がいたとすれば、あの人間の体に灯油をかけるという死の作業と、三十年ぶりに打鐘器を復活させるためには、どうしても時計台に入る必要があり、長くて一時間未満で戻ってくる必要がある。

しかしあの時間、自分を含めて、全員屋敷にいたはずだ。
鐘が鳴った途端、外に面した位置に大勢がやってきて、あの時計台を見上げたのだから、屋敷にいた人は誰も実行ができなかったはず。

仮に、屋敷にいた人間が密かにやったとすれば、最短で四十分近く時計台で不気味な作業をやった上で、なんらかの手段でここから着火したことになる。しかも、灯油の臭いも消してくる必要がある。

しかし、鐘の音がなるのに合わせて、全身に灯油を浴びた人が露台に立つことを期待して、遠距離操作で火だるまにするのを狙ってやるなんて、できるのだろうか?

では、やっぱりあの焼けた人が、自分自身で灯油をかぶって火をつけたのか?

それとも…あの時計台に取り憑いているという、黒く焼け死んだ妾の亡霊が、火をつけたとでもいうのだろうか?

拓海は、自分はPC作業しているから幽霊なんてありえないと思ったが、不気味な想像に背筋に冷たいものが上がってくるのを感じた。

そこまで考えたところで、奥の部屋から怒声が響いた。

「ふざけるな!」

宗一郎の声だった。

広間にいた人々が一斉に顔を上げる。
森も、和樹も、拓海も立ち上がった。廊下の奥へ人が流れる。使用人の女が怯えた表情で盆を持ったまま立ちすくみ、警察官が足早にそちらへ向かった。

拓海も後を追った。

奥座敷の前に、人だかりができていた。宗一郎が、若い親族の男を見下ろしている。男は二十代前半くらいで、顔を真っ青にして頭を下げていた。両手でスマートフォンを握っている。

「申し訳ありません、本当に、そんなつもりじゃ」

「そんなつもりではない? 人が燃えて落ちるところを撮っておいて、そんなつもりではないだと!」

宗一郎の声は廊下の柱まで震わせるようだった。
若い男は肩をすくめ、今にも泣きそうな顔で言った。

「鐘が鳴って、みんな見てて、つい……動画を。最初は時計台の鐘を撮ろうと思っただけで」

「転落したあとも撮っていたそうだな」

「手が、止まらなくて」

周囲がざわついた。

「動画?」

「撮ってたのか」

「まさか、火だるまのところを?」

「不謹慎な」

その声を割って、阿部警部が姿を見せた。
大きく息を吸うと、腹のところが動いた。
いつものように、慌てている様子はないが、小さい目は鋭かった。

「牧野さん。叱るのは後にしていただきましょう」

宗一郎が阿部を睨む。

「何だと」

「それは、貴重な証拠です」

阿部は若い男に向き直った。

「そのスマートフォンを確認します。外部に送信しましたか。誰かに見せましたか。クラウドへの自動保存は」

若い男は、震える手でスマートフォンを差し出した。

「送ってません。誰にも。たぶん、自動保存は…設定が」

「確認します」

阿部は部下に目で合図した。
警察官がスマートフォンを受け取り、動画を開く。人々が身を乗り出しかけたが、阿部が片手を上げるだけで、廊下の空気は押し戻された。

それでも、画面は少しだけ見えた。

暗い庭。
揺れる手ブレ。
ひとつ目のような時計台の白い文字盤。
鐘の音は、動画越しでも低く割れていた。

そして、画面が急に上へ跳ねて、露台が斜めに映った。
次の瞬間、橙色の火が画面の中で膨らんだ。

誰かの小さい悲鳴が入った。
遠く、手ブレはひどく、急に画面が拡大された。
画面は暗いが、そのせいで火の輪郭だけが妙に大きく広がっていた。

だが、そこに映っているものが人形ではないことは、素人目にもわかった。橙と赤の混じった炎の中の黒い影は、よろめくように左右に移動し、腕を振り、手すりにぶつかるように動いている。

不気味なほど、生きている人間の動きだった。

やがて影が前へ崩れ、手すりを越えた。
画面が乱れて、誰かの叫び声が入る。
ほんの一瞬、斑点のような火片が画面の下部へ移動するも、すぐに消えていってしまった。

動画はさらに数秒続いていた。
庭のざわめきと、誰かの「落ちた」という声。
「消防を呼べ!」という怒号に似た叫び声。
ぱっと振り向いたようで、障子や長押が映り込み、画面の端で宗一郎らしい影が動いている。

そこで阿部が再生を止めた。

廊下は、奇妙な静けさになった。

動画で見せられると、昨夜の記憶は夢ではなくなる。
人の目が見間違えたのでもない。
火だるまの人間は確かに露台に現れ、動き、落ちた。

阿部はスマートフォンを部下に預けた。

「遠距離ですし、手ブレもありますな。細部は解析が必要です。しかし…少なくとも、人形を落としただけのようには、見えません」

宗一郎は何も言わなかった。ただ、口元が硬く歪んでいた。

だが、もう遅かった。

動画が存在するという事実は、瞬く間に屋敷中へ広がった。

人が廊下を走るわけではない。誰かが大声で叫ぶわけでもない。
だがその噂は襖の隙間から染み出して、障子の向こうで形を変え、使用人や親族たちの口に、不気味な伝承として語られる。

「映っていたらしい」

「本当に燃えていたって」

「人形じゃないんだって」

「妾の火だ」

「火をつけられた男が落ちたんだ」

「裕治さんなのか」

「まだわからないって」

「でも、時計台から落ちたんでしょう」

「誰も行けたはずがない」

やがて、誰かがはっきり言った。

「妾に、連れていかれたんじゃないの」

宗一郎が何度否定しても、噂は止まらなかった。

昼の屋敷はまだ光があり、庭の青楓も白壁も見えている。
広間の欄間に彫られた馬の目は、さっきより黒く深く光っていた。
柱の陰は長く、障子に映る人影は、誰かを求めるようにさまよっている。
燭台型の電灯はまだ点いていないのに、壁の金具だけが鈍く光って、夜の訪れをいまかいまかと待ち望んでいるかのようだった。

拓海は廊下の端で、冷めた湯呑みを手にしていた。
飲んだ瞬間、茶はほとんど水のような冷たさだった。
喉を通っても、体は温まらない。
柱に手を置いて、ぼんやりと外を眺めていた。

そのとき、廊下の向こうから足音がした。

振り向くと、瑞希が立っていた。

生成りのカーディガンを羽織り、髪は軽くまとめられている。寝起きらしく、目元にはまだ眠気が残っていたが、顔色は朝より少しましだった。

拓海は思わず目を丸くして、ほかの人がいないのを確認して、いつもの口調で言った。

「…え、早くないか」

瑞希は、細く目を開けた。

「拓海が起こしたんでしょ」

「四時に」

「三時だったよ」

拓海はスマートフォンを取り出した。予約送信の履歴を見る。

午後三時。画面の数字を見た瞬間、全身から力が抜けた。

「…時計のせいだ」

「白うさぎのほうが、間違いないよ」

瑞希は静かに言った。

その声には怒りというより、呆れと少しの心配が混じっていた。彼女は近づいてくると、心配した表情で拓海の顔を下から覗き込んだ。

「寝てないでしょ」

「まあ、ちょっと」

「ちょっとじゃない顔してる」

「俺の顔、そんなにわかりやすいか?」

「カブトムシでもわかると思う」

「また昆虫に負けたのか、俺は」

瑞希は少しだけ口元を緩めたが、すぐに真面目な顔に戻った。

「部屋、用意してもらう」

「いや、今は」

「今だから」

言い切ると、瑞希は近くにいた女性使用人を呼んだ。
声は柔らかいが、そこには牧野家の娘としての自然な命令の響きがあった。

「すみません。川端さんが少し休める部屋をお願いできますか。警察の方に呼ばれたら、すぐ起こしていただける場所で」

使用人は一瞬だけ拓海を見たが、すぐに頭を下げた。

「承知しました」

拓海は口を挟もうとしたが、瑞希が先に睨んできた。

「倒れられたら困る」

「倒れないって」

「さっき目覚ましを一時間間違えた人が言うことじゃない」

ぐうの音も出ないほどの正論だった。
拓海は反論を諦めた。

案内されたのは、母屋の端にある小さな客間だった。
窓の外には竹が植えられていて、午後の光が細い葉を通して畳に揺れている。夏の青い匂いが満ちていた。
部屋の奥には低い机と座布団があり、壁には馬具を描いた古い掛け軸がかかっていた。

瑞希は入口に立ったまま言った。

「三時間だけ。ちゃんと寝て」

「お前は?」

「私は起きてる。警察に呼ばれるかもしれないし」

「無理するなよ」

「それ、今の拓海に言われたくない」

瑞希は少しだけ笑った。
その笑い方は疲れていたが、朝よりは生きていた。

拓海は畳に座り、壁にもたれた。
ようやく体を預けたと思うと、体が自分のものではないみたいに重く感じた。

瑞希が襖に手をかける。

「起こすから」

「今度は時間、間違えるなよ」

「誰かさんと一緒にしないで」

静かに襖が閉じていく。
細い隙間の光が、最後に一筋だけ残り、それも消えた。

静かになった部屋で、拓海は腕組をして目を閉じた。