第四章:十時の鐘

軒端に座ったまま時計塔を見上げていると、不意に、拓海の目の前が真っ暗になった。
何かに視界が背後から塞がれたのだった。

柔らかい手のひらが、そっと両目を覆っていた。
指先は少し冷えていて、そのくせ、背中にはやわらかな体温がぴたりと寄ってきた。肩甲骨と首の後ろあたりに、やわらかい感触が当たっていた。

「だーれだ」

耳元で、低く笑いを含んだ声がした。

拓海は、その感触に一瞬、どうしようもなく卑近な想像をしかけて、自分で少しだけうんざりした。こんなときでも、そういうことは頭をよぎるらしい。

「…知らないな」

いつもの返事をすると、背中の向こうで小さく笑う気配がした。

「ひどい」

「俺が知ってる限りじゃ、牧野家のお嬢様が、そんな行儀悪いことするわけないはずなんだけど」

「いまは私服だから」

そう言って、瑞希が手を離した。

振り向くと、瑞希はさっきまでの着物姿ではなく、生成りのブラウスと、膝下まである濃紺のスカートに着替えていた。上には、夏物にしては少し厚みのあるニットのカーディガンを羽織っている。

さっきまできちんと結われていた髪も、肩のあたりで軽くまとめ直されていた。襟元や袖口は相変わらずきれいに整っているのに、着物を脱いだだけで、屋敷の娘というより、拓海の知っている瑞希に近く見えた。

彼女はカーディガンの袖を指先で少し引き寄せながら、こちらを見た。山から降りてくる夜気は、夏の温度をいまだわずかに残していた。

「じゃあ、知らない人なら、どこか行っちゃう?」

「何だそれ」

「別に…休めた?」

拓海が聞くと、瑞希は「まあまあ」と言って隣に腰を下ろした。

軒板がわずかに鳴った。
屋敷の明かりで仄白い軒先の向こうには、手入れされた庭が暗く沈んでいた。飛び石のまわりに広がる整然と並んだ苔だけが、濡れてもいないのに湿った緑に見える。
石灯籠のそばの南天の丸い葉が、そよそよとした風で囁くような葉音を立てていた。
墨を広げたように見える池のそばでは、青楓の葉が重なり合って、ほんのりした月明かりに青い影をひらめかせて眠っていた。

「会食、終わったのか」

「うん。ほかの人たち、適当に散ってる。達弥さんは誰かと飲んでるし、兄さんは電話してた。藤井さんはまだお父様の周りうろうろしてる」

「想像つくな」

瑞希はうなずくと、庭の向こうを見た。

母屋の奥の広間にはまだ灯りがついていて、人の影が障子にうごめいていた。
さっきまで大勢が同じ食卓を囲んでいたとは思えないほど、屋敷の空気はもう細かく分かれている。
その空気は会食のものとは違って、気兼ねのしない声音に変わってさんざめいていた。

「そうだ」

拓海は思いついて言った。

「ん?」

「ここ、ほかの人、来るだろ。ちょっと歩こうか」

「…従姉妹に声をかける前に、練習してるんじゃないよね」

「お前は何を言ってるんだよ。ちょうど雲が晴れてきたし、息抜きもいいだろ。ほら、月がきれいだし」

「月がきれいですね、ね」

瑞希は横目で拓海を見て、片方の口の端を意地悪そうにふにゃっと上げた。

「ん、それが何? ほら、きれいで風情があるじゃん。あ、そういえば、7年前の修学旅行前も同じじゃなかったっけ。あのときお前が買ってきたお守り、車につけてたの、気づかなかったか?」

「ああ、あれ…って、まだ持ってたの?」

「事故に遭ってないから、効果抜群なんだよ」

「あ、そう…たぶん…これからも、効果があると思うよ」

それから2人は玄関に向かった。
目地も鮮やかな大理石の床で靴を履き終えると、瑞希は上着の前をかき寄せたままぽつりと口にした。

「お父様、住職さんと話してるよ」

「住職?」

「祭りのことと、古い寄進帳のことと、あと何か難しい話」

瑞希が顎で示したほうを見ると、渡り廊下の先の座敷、宗一郎と黒い衣の男が向かい合っていた。
住職らしい男は背を丸めず、かといって押し出しも強すぎず、静かな調子で何かを話している。宗一郎は腕を組み、時々短くうなずいていた。

住職の背後には、灯りのせいで掛け軸の影が長く伸びていた。
祭りの前夜に坊主と難しい話をする名家の当主、という絵だけ見ればいかにもそれらしいが、拓海には、その場の静けさがむしろ不気味に感じられた。

そのとき、廊下の向こうから藤井実がやって来た。
ずっと酒を飲んでいたのだろうか、少し頬が赤らんでいるが、やり手のビジネスマンらしく、目の奥は妙に冴えていた。

「牧野さん、さっきは大変でしたね」

藤井はネクタイの位置を直しながら、非常に整えられた笑みを瑞希に向けた。その声は計算されたような抑揚があって、やけに丁寧だった。

「着物、お気の毒でした。ああいう席では、ほんの少しのことでも疲れますでしょう」

瑞希はにこやかに返す。

「お気遣いありがとうございます」

その一方で、藤井の視線が拓海に向いた瞬間、声の温度が露骨に下がった。

「…あなたは、もう少し周りを見て動かれたほうがいいですね」

言い方は敬語だが、中身はほとんど叱責だった。
さっき宗一郎に怒鳴られたことを、わざわざ今ここでなぞるような言い方である。

拓海が鼻白んで何も言わずにいると、瑞希のほうが先に口を開いた。

「藤井さん」

声はやわらかかったが、単語の一つずつがはっきりと聞き取れるような明瞭な声だった。

「そのことでしたら、先刻父が十分に申しましたから」

「いえ、ただ――」

「それとも、今のこと、お父様にもお伝えしたほうがよろしいですか。藤井さんはお父様の言葉を、ご自分の言葉のように何度もほかの人に繰り返す方ですって」

一瞬で、藤井の顔色が変わった。

怯む、というのは本来もっと大げさな動きだろう。けれどこのときの藤井は、瞳孔が一瞬小さくなって、頬の片側がひくひくと痙攣するように引きつっていた。

「いや、そんなつもりでは」

「でしたら、もう結構です。今晩はごゆっくり、お休みくださいね」

瑞希は笑みを崩さずに言った。
藤井は曖昧に頭を下げると、少し背中を前にかがめた様子で、妙に丁寧な足取りでその場を離れていった。

拓海は、その背が見えなくなると、緊張が解けたように小さく息を吐いた。

「…こわ」

「何が」

「いまのお前」

瑞希は少しだけ眉を上げた。

「だって、あの人、あなたには露骨なんだもの。ああいう人、嫌い」

その言い方が妙にあっさりしていて、拓海は少し笑ってしまった。

「まあ、わかるよ。あんな言い方、すすめられるものじゃないよな」

しかし内心では、世の中ではよくあるよな、と感じていた。

「そういえば」

拓海はふと気になっていたことを口にした。

「裕治おじさん、まだ来てないのか。来るって聞いてたんだけど」

瑞希は少し首をかしげた。

「叔父様のこと?」

「うん。せっかくだから、裕治さんには挨拶したかったんだ」

「父さんはまだだよ」

答えたのは、ちょうど廊下の角を曲がってきた達弥だった。
足取りは落ち着いている。淡々とした語り口だった。

「結局、終わってないみたい。会社に残ったままなんだろう」

「祭りの前夜なのに?」

瑞希が返すと、達弥は軽く肩をすくめた。

「うち、最近ちょっとごちゃごちゃしてるから。父さん、新しいことをするときとか、重要なことがあるとき、逆に会社にいたがるんだよ。母さんはすっかりお冠さ」

その言い方の奥に、親しみと諦めが半分ずつ混じっていた。

「そうなの。でも、おば様は来てないみたいだけど」

「うん、母さんはちょっと具合が悪くて。でも使用人がついてるよ。動けたのがぼくだけだったから、こうしてここにいるって寸法さ」

「でも達弥さんって、いろんな会社で実務も担当してるだろ。相当忙しかったんじゃ?」

拓海が言うと、達弥は曖昧に笑った。

「意外とそうでもないよ。お飾りじゃないけど、ぼくの指示がなくても回るようにしておかないとね。ただ」

達弥は少しだけ声を落とした。

「叔父さんと違って、まだまだ小さいから」

叔父さんとは宗一郎のことだろう。

言葉は軽いが、その軽さの中に小さな棘があった。
拓海が尋ねた。

「でも、毎年黒字なんですよね?」

「そうだよ。去年も従業員たちに特別ボーナスも支給できたんだ。みんな喜んでいたよ。でも、叔父さんのところとは、資本の規模が違う。母数が小さいからさ、順調とは言え、油断するのはよくないものだよ。拓海くんだって、立ち上げのときのきつさは、よくわかるでしょ」

拓海がうなずくと、達弥はそれ以上何も言わなかった。さすがに仕事のことはこれ以上考えたくなかったのかもしれない。
「飲み直す?」と瑞希にだけ軽く聞いてから、断られると別の廊下へ消えていった。

「叔父様、大変そうね」

「そうだね。あの人、みんなに気をかけてるから、自分でやっちゃうんだろう」

拓海は、先程の和樹の言葉を思い出しながら口にした。
ああやって人を回せないと、この家で立場を保つことは難しいのかもしれない、と。

「…何か思うことがあるの? シャチョーさん」

「自分でやってるだけだからね? そんなに偉くない。冷やかすなよ」

時計台を見ると、九時半を少し過ぎていた。
二人は玄関から外に出ると、あてもなく庭園を歩いていた。昼間は立体感のある植え込みや木々も、夜の闇では得体のしれない影の塊に見えてしまう。

「そういえばさ」

拓海がぼんやりと言った。

「ん?」

「このあいだ、いつものプールに行ったんだよね。知ってるよな、ライトアップされるとこの。で、プールから上がったら」

「うんうん」

「知らない女の人たちから、すごいがっしりしてますね、とか、肩の筋肉すごいですね、とか声をかけられて」

瑞希の呼吸が一瞬、止まった気配があった。

「触らせてほしいって言われたから、触らせたらキャーキャー言われちゃって困ってさ。なんなんだろうね、あれ」

瑞希はまっすぐ前を向いて、何も言わなかった。

「そして体を拭いてたときも、子ども連れのお母さんたちから、背中が広いですね、とか言われたんだ。これ、もう写真素材として販売したほうがいいと思うんだ、小銭稼ぎになるし。もしかすると、モテ期ってやつかもしれないって思うんだけど」

瑞希は何も返事をしなかった。
カーディガンの前をとめるようにかき抱くと、その口元に裂け目ができたように、ぞわぞわと笑みが広がった。

「………………………へぇ」

「好きで泳いでるだけなのに、声をかけられると悪い気はしないな」

そこで唐突に瑞希の足が止まった。拓海は何事かと思ってその顔を見る。

「わかった…それ、違うよ」

それはまさに、青天の霹靂でもあったかのような表情だった。

「ん?」

「わかっちゃった。それ…私の灰色の脳細胞が完全に目覚めてちゃったよ。それね、手配書と見比べてたんだよ。1週間前、福岡県でクマ出現のニュースがあってたけど、実はそれって着ぐるみで、そんな迷惑行為をした拓海を容疑者と思って、体格の確認をしてたんだよ!」

あまりの言葉に、拓海は焦った声を出した。

「いや、何言ってんの? 1週間前、そもそもお前の買い物に付き合ってただろうが! なんでクマの着ぐるみの中身が俺なんだよ! できるわけないだろ!」

「そう思ってるのは、本人だけだよ…わかってる、完璧な推理に驚いたんでしょう…大丈夫、拓海が女の人を目の前にしたら、簡単にケダモノになる男の人だって、言わないから」

「なってない! 脈絡ないだろ!」

「むきにならなくていいよ…警察から匿ってあげる。15分くらいは」

「それ、匿うって言わないだろ! 基準がおかしいだろ!」

二人が言い合いをしているあいだ、屋敷の中は妙に静かな時間が流れていた。

誰かが笑う。
どこかでグラスが鳴る。
廊下を使用人が静かに横切る。
庭の木々が風に揺れる。
夜の山の匂いが、少しずつ濃くなる。

やがて時間は十時になった。
時計台の文字盤の短針が十のところに、長針が十二を指した。

その瞬間、澄んでいながらも大きな金属音が鳴り響いて、湿り気を帯びた夜気そのものが震えた。

拓海は反射的に顔を上げた。
瑞希も、庭の向こうを見たまま凍りつく。
そして音の方向に向いた。

時計台の鐘だった。

三十年前を最後に鳴るのを止めたはずの鐘が。
長いあいだ鳴っていないと聞いた、あの塔の鐘が、夜の山に低く重く響いていた。

四秒後、二打目が鳴る。
耳を打つほどの大きな音だった。

屋敷の中で、人の気配が一斉にざわめいた。

廊下の向こうで誰かが「えっ」と声をあげた。
座敷の障子が開き、人々が次々と縁側や庭先へ出てくる。

宗一郎も、住職も、達弥も、藤井も、使用人たちも。

皆が同じものを見るように、庭の向こうの高みの時計台へ顔を向けた。

「おかしいぞ」

「打鐘器は止めてるはずだろうが」

「周りから何を言われるかわからんぞ!」

屋敷内でざわざわと声が上がった。

中腹を黒松の枝葉に囲まれた石の塔は、夜空の中に冷たく立っている。
そして二打目の余韻が山へ吸い込まれていく直前、ひとつ目のような時計盤の下の露台に、不気味な異変が起こった。

弱い月明かりを浴びている露台の奥、暗い扉のあるあたりに、棒のように黒い何かが立っているように見えた。

次の瞬間、その影の内側からせり出てくるように、橙色の波打つ輪郭が広がった。

燃え盛る炎だった。
その中に、黒く人間の輪郭が浮かんでいた。

拓海はあまりの光景が信じがたいというように目を見ひらいた。
瑞希の体を抱き寄せると、瑞希は拓海に体を密着させて、同じ方向を見ていた。

誰かが息を呑む。

最初、詰まった息づかいがあったが、ややあって女の短い悲鳴が遅れて上がった。

鐘の音の響き渡る中、火だるまになった人影は、扉口からよろめくように現れ、両腕を振り回して、露台を左右によろめきながらうごめいていた。

炎から上がる黒い煙が夜気を舐めて、身体の輪郭がゆがみながら揺れる。
屋敷から見上げる形になるので、下半身が大きく燃えているように見えた。

衣服なのか、皮膚なのか、何が燃えているのかも判然としない。ただ、その炎の中に人間がいることだけは、どうしようもなくわかってしまった。
鐘の大きな音にかき消されているだろうが、きっとその場ではパチパチと燃え立つ音と悲鳴が上がっていることだろう。

「きゃああっ!」

今度は屋敷側で、本物の悲鳴がいくつも重なった。

使用人の誰かがその場にしゃがみ込み、別の誰かが「水を!」と叫び、別の誰かが「近づくな!」と怒鳴る。

そして四回目の鐘が鳴る直前、火をまとった影は、よろめくように一歩、二歩と前に動き、それから手すりに体をもたれかかった。

「あっ…!」

瑞希が拓海の袖をぎゅっとつかんで、それを見ていた。

次の瞬間、まばらに火のついた人影は、手すりを乗り越えると、落ちていった。

火を帯びた者は、黒松の枝の群れの前をよぎると、瞬間的に点々と橙色をつけた体を細切れされたかのように姿が乱れて、やがて時計台の下の黒松の闇へ消え去ってしまった。

高台に立っている時計台を、松の歪んだ枝ぶり越しに下から見上げている形だったので、落下の一部始終が見えたわけではない。

しかし、炎をまとった人が落ちたのは間違いなかった。

やがて時計台は、十度目の鐘を最後に、低く重い余韻を残して静まり返った。

時間にして、一分間もない出来事だった。せいぜい50秒間ほどの出来事だっただろう。

鐘の重い余韻も消え去ったところで初めて、誰もが一斉に息を吐いた。
吐いてから、次に何をすればいいかわからなくなったように、その場が数秒だけ凍りつくが、それもつかの間の出来事だった。

「警察だ!」

宗一郎の怒声が飛ぶ。

「すぐ通報しろ! 誰か水を持て!」

「いや、救急車と消防だ!」

「あのままじゃ燃え広がるぞ!」

「バカ、撮影なんかしてる場合か! 急げ!」

住職が何か経を唱えかけたのか、低く言葉を漏らす。
藤井は顔色を失い、達弥はすぐに使用人へ指示を飛ばし始めた。
瑞希は真っ青な顔でかたかたと振るえて、その指はまだ拓海の袖をつかんだままだった。

拓海はその手をそっと外すと、震えている瑞希を近くの軒端に座らせて、「ここで待ってろ。戻ってくるから」と言いつけて、一度玄関に向かって走り出した。
玄関脇の開き戸には、停電用に懐中電灯が保管してある。

「拓海!」

後ろの瑞希の声が遠くなった。
だが振り返らなかった。

懐中電灯を手にとって庭を横切っていると、すぐ脇から達弥が飛び出してきた。
足を進めながら靴を履いて、すぐに追いかけてくる。

「行こう!」

そのあとに、和樹がジャケットを羽織りながらほとんど同時に駆け出してきた。
顔は青ざめていたが、足は速かった。

三人は、闇夜の中、時計台へ続く坂道を登っていく。

夜の山道は思ったより暗く、しかも足元が悪い。
定期的に清掃はされているようで予想よりはマシだったが、黒い土がぬるっとしていた。落ち葉が湿っていて滑りやすく、石がごろついている。

息が上がり、喉の奥に冷たい空気が刺さる。
やがて木立の群れの向こう側に、時計台の入口がぼうっと光の中に浮かび上がった。

「見えたか、お前ら!」

和樹が叫ぶように言う。

「見えた!」

拓海も返す。

「あれ、誰だった!?」

「わからん!」

和樹の声は、息が混じってひび割れていた。

走り出してすぐ、拓海たちは最初の堀に行く手をふさがれた。
底の見えない堀の黒い水が、夜の底を裂くように横たわり、迷路のようにぐるぐると蛇行している。

「橋はこっちだ!」

和樹の叫び声に従って、三人は堀沿いに走った。

時計台は右手の上に見えているのに、道はその反対側へ曲がっていく。

焦げた臭いが風に混じるたび、足が勝手に速くなった。

しかし堀は蛇のように曲がり、行く手を塞ぎ、橋はわざと遠ざけられたみたいな場所にしかなかった。

一つ目の橋を渡る。
三人が渡っていくと、木の板が足の下で悲鳴をあげる。

渡ったと思ったら、また堀があった。
今度は石垣に沿って大きく回り込まなければならない。

懐中電灯の光が揺れると、ぱっと幹が白く浮かぶ。
濡れた落ち葉が靴底で滑る。

誰かの荒い息が、すぐ横で破れていた。

「くそっ、近くに見えるのに!」

和樹が吐き捨てる。

その通りだった。

時計台は、ずっと見えている。

進んでいくにつれて、黒い塔の輪郭も、上の暗い窓も、木々の隙間から何度も見えていた。

だが、見えるよりも遠い。

堀がある。
橋が遠い。
道が曲がる。
斜面が足を奪う。

拓海は、燃えた人間が落ちたはずの場所へ向かっているのに、世界そのものが、そこへ行かせまいと遠ざかっているように感じられた。

ようやく時計台のある高台にたどり着いたころには、屋敷から見えたような炎の勢いは、もうなかった。

「どこだ!」

「こっちだ!」

達弥が大きく懐中電灯を振ると、時計台の正面から少しずれた石壁が、光の縁で丸くくり抜かれた。
拓海と和樹も同時にそっちに穂先を向けると、達弥が時計台の方向へ向かって走り、がさがさと枝葉を踏む音がした。

「違う、こっちだ!」

達弥がもう一度叫んで、次いで時計台の入口の手前の地面に光が当たった瞬間、黒く盛り上がった何かが見えた。

時計台の下の木立の縁で、ぶすぶすといぶされたような煙が上がり、赤いものがちらついていた。

それは火というより、燃え残りだった。
布の端にしがみついた小さな赤い炎が、風に押されて細く伸び、また縮む。
白い煙が地面を這い、湿った草の上に低く漂っている。

三人は、急いで駆け寄っていった。

光の輪が木の幹をなめ、地面の上を跳ね、やがて一つの場所に止まった。

そこに、黒い人が倒れていた。
まるで何か赤いものが生えているように、小さな火がついていた。
達弥が真っ先に駆け寄り、近くに落ちていた枝葉でばさばさと叩いていた。

拓海はライトで照らして、それを見てしまった。

体に合わない小さめのサイズのコートに焼け跡の黒い穴が空いて、いまだところどころ小さく青い炎をあげている。
体の下には、黒い灰が押しつぶされたように広がり、平たい茶色っぽいものも見えた。
焦げた臭いが、夜の湿った空気の中でも強く鼻を突いた。
肉の焼ける臭いだった。

拓海は思わず吐き気を覚えて、口を押さえて喉の奥をつまらせた。

「消せ!」

和樹が声を裏返らせながら叫ぶ。

三人は着ているものや落ちている枝、湿った土をかぶせて火を消そうとしていると、遅れて使用人たちが追いついてきた。
和樹が、使用人から水の入った手桶を奪い取り、火のついているそれにばしゃっと水をかけると、じゅっと嫌な音がして、白い煙が立った。
そして煙の向こうにあったものが、少しずつ焼けた人間の形を取り戻していった。

顔は、ひどかった。

皮膚は黒くただれて縮れ、元の輪郭をとどめていない。目鼻の位置さえ、すぐにはわからない。口からは食いしばったような状態の歯が見えている。髪はほとんど焼け落ち、特に首筋から肩にかけて黒く割れていた。

達弥が、死体を目の前にして、その場でへたりこんでしまった。

「…うそだろ」

声が、かすれている。
和樹は額に冷や汗をにじませながらも何か言おうとして、喉だけが動いた。
拓海は懐中電灯を持つ手に力を入れたまま、焼け残った身体の線を見た。

がっしりした肩。胴の厚み。脚の長さ。

顔ではわからない。
しかし、まだくすぶりのある靴と、熱でカバーにひび割れの生じている時計が、あの叔父の持ち物と同じだった。
その時計の針は、九時五十分を指して止まっていた。

でも、この場の誰もが、焼けた死体を見て、同じことを考えたのだと思う。

裕治ではないか。

その名を、最初に誰が口にしたのかは、あとになっても曖昧だった。

ただ、拓海が乾いた喉のまま「…裕治、おじさん…?」と漏らした瞬間、達弥の顔色が目に見えて変わった。

「そんなこと、ない…父さんは、会社だぞ…」

達弥は絞り出すように言って、まるで磁力で吸い付けられたように、拓海の手の懐中電灯に照らされた黒い物体を見据えていた。

その一言で、夜の空気は完全に別のものになった。

怪談でも、祭りの前触れでもない。

これは、牧野家の人間が死んだかもしれない夜だ。

高台の上では、止まっていたはずの時計台が、何事もなかったように暗く立っていた。

その石壁のどこにも、今しがた火だるまの人間が現れたとは信じがたいほど、塔は冷えて見えた。

だが地面には、火に焼けた黒い死体が転がっている。

そしてその顔のない死は、いままさに、親族たちの誰かの名前を帯びようとしていた。