第六章:鳴らない鐘

夜が明けきらないうちから、屋敷内の空気はますます息苦しくなっていった。

「では、事件前の時点で、あの時計台の打鐘機構は、鐘を鳴らさない状態にされていたと。そういうことで間違いないのですね? ああ、現在は捜査のため、こちらで再び接続を外しておりますが、問題は事件前の状態です」

阿部警部の独特の低い声が、目の前の古参の使用人の男に届いた。
数時間前から屋敷内の諸々の人へ質問しているのに、いささかも声量の落ちた様子も、かすれた様子もなかった。

祭り前の親族の集まりに向けて整えられていたはずの広い母屋は、いまやどこを見ても『待たされている人間』の顔で満ちていた。
使用人たちは小声で行き交い、親族たちは一つところにまとまることもできず、客間や廊下や控えの間にばらけている。
警察の指示で、事情聴取が終わるまで屋敷から出ることは禁じられていたが、屋敷内の移動までは制限していなかった。
しかし、これが終わったあとに帰ることは、誰一人としてきちんと決められないままだった。

使用人が障子を閉めると、あぶみを象っている黒い引手が光を返した。
そして廊下からは、使用人たちの忍ぶように囁く声が聞こえていた。
遠くで誰かが障子を閉めると、敷居にこすれる音がして、そのあとにしんとした静けさがくる。

静けさといっても、何もないわけではない。どこかで押し殺した話し声が続いていて、廊下の板のきしみや、湯呑みの置かれる小さな音が、そのたびに妙に大きく聞こえるだけだ。
庭の植え込みのあたりか、まだ夜を引きずった虫の声が空気を震わせた。

拓海は、客間の隅に立ったまま、阿部警部と古参の使用人のやりとりを眺めていた。

古参の使用人は、阿部警部に向かって、髪の薄くなった頭を下げた。しっかりした生地の服の左胸あたりには、馬の蹄鉄のモチーフの柄が染め上げてあった。
使用人の男は、不自然なほど右手を顔全体にぺたぺたと触れて、少しだけ戸惑った表情を浮かべていた。

「はい。文字盤だけは、今も業者に見てもらっております。旦那さまが、あれだけは止めるなと」

「それは、すでに伺っております。私の時計と比較しましても実に正確な時刻を指しておりましたので、よほど正確に調整しておるものと思いました。ですが、ご質問のところは鐘の作動についてです。そちらをお答え願えますか」

「失礼しました。まだ頭のほうがしっかりしておりませんで…はい、打鐘のほうは、三十年ほど前に止めました、はい。先代さまの頃にです。山裾に住宅が増えまして、朝晩に鳴ると苦情が来るようになったものですから。それは、先代さまの頃から、そんな雰囲気はありましたが。あのあたりももともとは牧野家の土地でありましたのに、宅地にされまして。近頃は特に、土地のことも知らぬ人たちも入ってきておりますので…」

「そういうことですか。いつまでも昔のままではいられるわけではないのは、よくわかります。つまり、針が十時を指すことはあっても、勝手に十時を告げることはない、と」

阿部警部は手元のメモ帳に鉛筆で何かを書き記した。

「はい。鳴るはずはございません」

「では、打鐘機を作動させるのは、よほど難しいことだったのでしょうか?」

「それは…」

使用人は言いよどんで、口をもごもごとさせた。

「きちんとお答え願えますか? 何度もご質問する手間が省けるので、お互いによろしいかと」

ひとときの間のあと、使用人が答えた。

「分銅とハンマーとの連結だけつなげば、誰でも可能かと思われます。つなぐための鎖も、そばに置いてありましたから、機械知識がなくとも、見ただけでなんの意味があるのか、わかるはずです。鐘は、その、一時間毎に鳴るように設定されていますので、あとは放置さえしておけば自動で鳴りますから。本当に、あの打鐘機を誰かが戻されたんですかね?」

「鑑識のほうでは、あの鐘を鳴らすには、打鐘機以外で鳴らすことは不可能だと見立てていますよ。あれだけの高さの時計台の外をよじ登るのは、まず不可能でしょう。人間がやったことと見て、相違ないと見ています。では、打鐘機の接続は、子どもでもできるのですか?」

「…問題なく、できるでしょう。ですが、時計台には入口に鍵をかけておりますので、鍵がなければ誰も入れませんよ。時計台の扉は破られていたのですか?」

「いいえ、あいておりました。その鍵は興味深いですね。遺体の懐にあったものと、同一かもしれません。鍵はどのように管理されているのです?」

「はぁ、使用人頭の山本さまが、台帳で管理しております。ですが、あまり見られても意味は…」

その言葉に、阿部警部が興味深そうに口を尖らせた。

「意味は、とは?」

「あの鍵は普通だったはずですから。詳しくはそちらでお尋ねを。いまは、厨房のほうで食材の管理をされているはずです」

「そちらの方にも、もう一度しっかりお尋ねする必要がありますな。では、母屋から時計台までは、どのくらいかかりますか」

「表の橋を回れば、片道十分は…それでも昨夜のような暗さでしたら、堀がありますので、もう少しかかるかと」

拓海はあの火だるまが落ちて以降のことを思い出した。
橋を渡って駆け抜けたときも、誰ひとりとして、時計台の方面からやってきた者はいなかった。

「鍾乳洞を抜ける道は」

その言葉を聞いた瞬間、拓海の背中に冷たいものが走った。

「はあ、ございます。昔の山仕事の者が使っていた道です。祖父の頃には、山菜や薪取りなどで山に抜けるのに使われていたと。ただ、足場が悪うございますし、中は迷路のようになっております。道を知らぬものには、使うことも難しいでしょう。片道三十分ほどは見ていただかないと」

「往復で一時間ですか」

「はい。慣れた者でも、それくらいはかかります」

二人の言葉が聞こえてしまったようで、使用人や親族たちは、ざわつき出した。

「そんな、誰が行けるんですか」

「十時前後、みんな屋敷にいましたよね?」

「鍾乳洞を通ったって、あんな短い時間では」

「じゃあ、あれは本当に、お妾の…」

それで、警部と使用人の話は終わった。
阿部警部は表情を変えずに、畳を踏みしめるようにのしのしと歩いて広間を出ていった。
拓海は目を伏せて、改めて周囲を見回した。

達弥は親族の間を行き来しながら、誰に対しても声を荒げない。住職は宗一郎の近くにとどまり、ときどき低い声で何かを言っている。藤井実は、さっきまでの媚びた笑みをだいぶ失ってはいたが、それでも警察や宗一郎から遠すぎない位置を巧みに選んで立っていた。

その代わり、庭に面した狭い廊下の先の突き当り近くの壁に、背をつけるように立っている瑞希を見つけた。
いまは周りに誰もおらず、疲れた顔でうつむいていた。

拓海は人目を避けるようにして、そちらへ向かった。

瑞希は足音で気づいたらしく、顔を上げた。

その顔色はよくなかった。
唇の色が薄くなり、目の下にうっすら影が落ちている。さっきまで必死に保っていた牧野家の娘の顔は、いまはかなり崩れていた。

「…眠れたか」

拓海が小さく言うと、瑞希は首を横に振った。

「全然。無理」

声が、少し震えていた。

「目を閉じると…なんかね、まぶたの裏に見えちゃう気がして」

『見えちゃう気』と言われて、拓海の頭にも即座に塔の上の火がよみがえった。
露台の向こうの黒い人形。長く響く鐘の音。十時を指した文字盤。死を思わせる茜色と橙色の炎。悲鳴。森へ沈んでいく火の塊。
そして高台の下で見た、まだくすぶる死体。

「大丈夫だ」

そう言った自分の声が、ひどく空々しく聞こえた。

何が大丈夫なのか、自分でもわからない。
それでも、今ここで言うべきことはそれしかなかった。

「鐘も、火も…昔の話と同じだった。
それに、あの時間の前後、みんな屋敷から離れてないって。
こっそり鍾乳洞を通っても無理。お手伝いさんたちも、地下のところで作業してて、鍾乳洞から出てきた人はいないって。
それに、時計台は鍵がかかってたはずだから…おじさまやおばさまたちも、お手伝いの人も、みんな、みんな変なことで騒いでる。
誰も時計台に行ける時間もないし、こっそり戻ってこられるはずもない…
これ、どういうことなの?」

「わからない。まだな。でも、それは怪談なんかのできることじゃない。誰かが、怪談と同じ見た目に見えるように、したんだ」

瑞希がゆっくりと首だけ曲げて拓海の顔を見ると、笑おうとしたが失敗して、引きつるような奇妙な表情になった。

「誰かって…」

「人間だよ。それ以外、ありえるもんか」

鑑識の語った灯油の反応に、焼けた死体。そして警察の現場検証。
すべて現実の出来事だった。

それらしいというだけで幽霊のせいにした瞬間、人に灯油をかけて焼いた者は、この屋敷の中で息をすることを許されてしまう。
そう、誰かが、時計台であんな無残なことをしたのは間違いないのだ。

瑞希は唇を噛んだまま、視線を落とした。

「あの人が…誰なんだろうって、思うの」

「うん」

「でも、知らない人じゃなかったら、じゃあ誰なのって」

そうじゃなかったら、の裏を想像して、拓海は頭を左右に振った。

「いまは考えなくていいよ。考えなくてさ」

拓海はその『誰』を口に出した瞬間、本当にこの家の中の誰かの名前になってしまいそうだったからだ。

「瑞希」

「…わかってる。言っても仕方ないのも」

それでも声は震えている。
拓海は廊下の向こうを確かめて、誰も来ないことを見てから、一歩だけ近づいた。

「まだ、何も決まってない」

「でも人は死んでる」

「…うん」

「しかも、あんなふうに」

言葉の最後が細く切れた。

拓海は彼女の肩に触れようとしたが、ここが完全な死角ではないことを思い出し、寸前で手を下ろして、指先だけ取った。
その動きを見ていたのか、瑞希が一瞬だけ、苦笑に近い顔をした。

「こんなときまで、ちゃんとしてるんだ」

「ちゃんとしてないとまずいだろ。ここだとこれくらいしかできないけど…うん、我慢してくれ」

「そうだね」

二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。

「そう言えば、昨日、何か隠してただろ」

瑞希は一瞬だけ目を伏せた。長いまつげの下の目が、かすみがかったように曇った。

「見てたよ。いつものくせ、やってただろ」

「今、ここで言えることじゃない」

「裕治さんのことか」

「…あとで話す」

そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきたので、拓海はぱっと手を離した。

振り向くと、和樹だった。

顔色は相変わらず悪いが、あのとき高台で見せた呆然とした表情はかなり消えている。代わりに、無理やり何かを噛み砕いて飲み込んだあとの硬さが残っていた。

和樹はまず瑞希を見て、それから拓海へ視線を移して、詰め寄るようにぎりぎりの距離まで近づいてきた。

「やっぱり、ここにいたか」

声音は低いが、露骨に刺がある。

拓海はまっすぐ見返した。

「何か用ですか」

和樹はその問いにはすぐ答えなかった。
代わりに、少しだけ首を傾けて、ジャケットの前をきちんと伸ばすと、大仰な咳払いをした。

「ふん、川端くん。前に、裕治叔父さんの仕事を手伝っていたよな」

瑞希の顔がわずかに強張る。

拓海は、ああ来たか、と思った。
どうせ警察にもどこかの段階で伝えようと思っていたことではあった。

ただ、普段の和樹だったら、妹である瑞希の前でも『お前』と言ってくるはずなのに、妙に丁寧に『川端くん』と言ってくるのが、妙に不気味な感じだった。

「一度だけ、販促の件で相談を受けました」

「一度だけ、か?」

「販促の相談は一度です。けど、そのあと、資料の電子化を少し頼まれたりしましたよ。古い帳面とか、地図とか。俺、いや自分が万が一破損したらまずいと思いまして、そちらはお断りしたんですよ。調べてもらっても構いません」

だが和樹はすぐにその言い方に食いついた。

「その内容は知っていたわけか?」

「いや、それは本当にわからな――」

「つまり、裕治叔父さんと個人的な接点はあったわけだな」

言い方は静かだった。
静かだからこそ、そこに乗っている疑いの色がはっきり見える。

「自分は仕事上の問題で頼まれたんだと思ってました。でも変なことはなかったし、接点なら…」

拓海は隣の瑞希の視線を見ないようにして言った。

「あなただって身内でしょう。でも、だからといって、それとこれとは関係ないはずです。自分だって、遠いとはいえ同じなんですから」

「そうだな」

和樹は片方の眉を釣り上げて、喉の奥から絞り出すような不気味な声を出した。

「だが、あの遺体が本当に裕治叔父さんなら、話は変わる」

瑞希が息を呑んだのがわかった。

「あの炎上を見て、高台へ最初に駆け上がったのも君だった。裕治叔父さんが来ないことを、事件の少し前に確認していたのも、君だ。
そして瑞希を送り届けに来たのに、会食が終わってもここに居続けたというのは、そこになんらかのつながりがあると見るのは、自然なことだろう。
もしかするとあのとき、最初に時計台に向かったのは、俺達が着く前にあの死体に何かを済ませて、アリバイ作りをするためにやったんじゃないのか」

和樹の口調が、だんだんと荒くなっていった。

「いや、待ってください。俺が着くのと大差ない時間で、あなたも来たでしょう。達弥さんが火を消そうとしてたのも、俺があの遺体にかがみ込むほんの数秒前だったじゃないですか。そんなこと、できるはずない。それに、それは会話の流れで――」

「会話の流れ? なかなか都合がいいものだな、ずいぶん」

和樹は片目をひらこうとして、まぶたが痙攣していた。口元がほんの少しだけ歪んだ。

「確かにまだ身元は決まっていない。だが、いずれは歯型などで照合もされるだろう。そこでもし、あれが叔父さんだとすれば、君はその名前を一番早く、あの場で口にした人間だ。それがほのめかしなのか、そうでないのか。それとも――」

その瞬間、瑞希が顔を上げた。
眉尻がきっと上がっていた。

「兄さま」

声音はあくまでやわらかかった。
だが、そのやわらかさがかえって、場の冷たさを際立たせた。

「いま仰っていることは、筋が通っておりません」

和樹が眉を寄せる。

「瑞希、今は――」

「拓海さんが、裕治おじさまとお話ししたことがあるからといって、それだけで何の証明になりますの。そんな理屈でしたら、この家の中でおじさまと接点のある方はほとんど皆そうなってしまいます。
それに拓海さんは、あの鐘が鳴る前から私とお話していました。それに、鳴り終えてから走っていったんですよ。そのあいだ、絶対に何か怪しいことができるはずはありません。そしてまだ、あの方が裕治おじさまと決まったわけではないでしょう」

瑞希は、まるで食卓で無礼な意見を静かに退けるときのような口調で言った。お嬢様の話し方そのままなのに、内容はまっすぐ和樹を切っている。

「それとも兄さまは…」

すっとまぶたを伏せて、急に静かな声に変わった。

「関係の近さではなくて、何も言い返すことのできないような立場の弱い方から順に、疑っておられるのですか」

和樹の顔がわずかに変わる。
目がひらかれて、白目のところが赤く充血しているのが見えた。

その一言は、かなりきつかった。

家の外にいる人間だから疑っているのではないかと、ほとんど明言したに等しい。

「おい、瑞希。いい加減にしろよ。俺は現実的に――」

「では、感情で人を選んでおられるだけですね」

「瑞希…!」

「今は、誰かを都合よく外に置いて、安心している場合ではないと思います」

和樹が何か言い返しかけたところで、別の声が割って入った。

「やめよう、和樹」

達弥の声だった。

彼は廊下の角に立っていた。顔色は悪い。
恐怖なのか、それともいま起こっていることで戸惑いがあるのか。
袖から見える、小刻みに震える右手を押さえるように、左手で右手の手首を握っていた。

「今、拓海くんを責めても何も進まない」

「俺は現実的に考えてるだけだ、最初にあんなことを言ったこいつが怪しいって」

「そう思うのは和樹の勝手だけど、現実的に考えるなら、なおさら警察に任せるべきだよ」

達弥は一度、言葉を切った。

「まだ、あれが父だと決まったわけじゃない」

ふっと顔をかたむけて、両目が額の陰に沈むと、その声だけがわずかに掠れた。

「でも、もし父だったとしても…いや、だからこそ、感情で誰かを犯人にしたくない」

和樹は黙った。
だんだんと白んできた光が、塀の輪郭を明るく縁取り始めていた。

「父と接点があった人間を疑うなら、この家にいる大半を疑わなきゃいけなくなる。土地の話をした人間。株の話をした人間。仕事で関わった人間。来ないことを知っていた人間。お手伝いの人。ぼくだって例外じゃない。ここにいるみんななんだ」

「お前は…こいつを庇うのか」

「庇っているんじゃない。そうじゃないけど、順番を間違えるなと言っている。まずは落ち着きなよ」

達弥は、和樹を諭すというより、言い訳を許さずに道を閉じるような口調だった。

「今、拓海くんだけを先に疑う理由にはならない」

和樹は唇を結び、何秒かだけ黙ったあと、視線を逸らした。

「…悪かったとは、言わん」

それだけ言うと、彼は踵を返して去っていった。

廊下に残った空気は重いままだったが、さっきよりはましだった。
達弥は瑞希を一瞥し、それから拓海にも目を向ける。

「君を疑うのが早すぎる」

「ありがとうございます」

拓海が言うと、達弥は少しだけ肩をすくめた。

「礼を言われるほどでもないよ。順番の問題だよ…そう思っていないと、あんなことがあったんだ。ぼくも誰を疑えばいいのかわからなくなる」

その順番という言い方が、妙に引っかかった。
感情で庇ったのではなく、今はまだそこを疑う段階ではない、という意味にも聞こえる。
確かに警察も、証拠に基づいて調べていくだろう。

達弥はそれ以上何も言わず、「瑞希、少し休んだほうがいい」とだけ残して立ち去った。
二人の足音が消えると、廊下には木々の影と白んだ朝日のにじんだ色が戻ってきた。
遠くの渡り廊下では、使用人が何かの準備をしている姿が見えて、新緑の色合いも鮮やかな山々からは、目覚めた鳥たちの歌声が聞こえている。

瑞希が、小さく息を吐く。

「…助かった」

「俺じゃなくて、達弥さんにだろ」

「両方」

そう言ってから、瑞希は少しだけ眉を寄せた。
そして、ふっと何かを思い出したように息を止めた。

「どうした」

拓海が聞くと、瑞希は警官たちに聞こえないように顔を寄せる。

「…裕治おじさま、先々月だったと思うけど、この家の文献を調べてたの」

「文献?」

「うん。蔵の記録とか、古い帳面とか。いま思うと、山林のことがどうとか言ってたの、思い出して。まだわからないけど、もしかしてって」

拓海は顔を外に向けて、すぐには返事をしなかった。

頭の中で、その情報が事件とまだうまく結びつかない。
あの死体が、本当に裕治のものであるのかも確定していない。

だが、いま警察が追っている資産関係の線とは、明らかに別の匂いがした。

「どこにある、それ」

「記録?」

拓海がうなずくと、瑞希は何気ない様子で周囲を見回した。

「蔵か、奥文庫かな。家の帳面とか古地図とか、まとめて置いてあるところに」

「どっちにありそう?」

「奥文庫だと思う。蔵は、さっき警察の人が鍵を借りてた」

二人は奥文庫に向かっていった。
奥文庫には鍵がない。親族が家の記録を調べるときに使う場所で、使用人も特に止めなかった。

大広間の前を通り、一度大きく折れた廊下を曲がって、風のよく通る渡り廊下を抜けると再び屋内に入って、奥座敷の前を通った。
見上げると、奥座敷前の柱のてっぺんあたりには、古びた蟇股が据えられていた。その中央には、前脚を高く上げた馬が彫られており、まんまるの目が拓海と瑞希を見下ろしていた。

そしてつややかな板張りの廊下に入った。
右手の壁には、歴代の牧野家当主の写真が漆塗りと思われる黒い額縁の中に整然と並べられており、廊下を通る者たちを見つめていた。

新しいものは色鮮やかな色合いで、奥に進むごとに色があせていく。
瑞希が、二番目のものを目で指して、「おじいさまだよ」と言った。
宗一郎のものはまだない。現役世代は飾っていないようである。

拓海はなんとなく、和樹もいずれはここに並ぶのだろうかと思った。
たぶん、嫌味のほうが有名な当主になっているかもしれないが。

そしてなんとなく、足を止めた。
そのうちひとつ、奥から二つ目の写真だった。

黒い羽織姿の細身の老人だった。
額は広く、生え際は高い。細い眉はきれいに整えられていた。
その下では、物憂げに垂れたまぶたの影に、底しれぬ井戸のような瞳がこちらを見ている。
鼻は高く、口元は厳しいほど引き締められていた。

若い頃は、よほど顔立ちがよかったのだろう。頬は痩せているのに、顎の線にはまだ若い頃の整いが残っていた。背筋はまっすぐと伸ばしており、写真の中とはいえ、鋭い威厳を放っていた。

額の下の小さな札には、こう記されている。
二代 牧野宗胤。
幼名、千寿丸。
通称、修之助。
当時は、修之助さま、と呼ばれていたのだろうか。

もうひとつ奥の初代牧野家当主の写真は、明治時代初期の頃のもののせいか、ほかのものよりも小さく、茶色く色あせていた。

羽織袴の男が、肘掛けに手を置いて、椅子に腰かけていた。
肩幅が広く、首が太い。濃い眉の下の目は細いが、眠たげではなく、むしろこちらを値踏みするように鋭く、蔑みのような色も浮かんでいた。
右手には見るからに贅を凝らした扇子を持っている。

札を見ると、こう書かれていた。
初代当主 牧野清胤
旧称 牧屋清兵衛
屋号 牧屋
天保十二年生 明治二十六年没

拓海は、自分と全然似てはいないが、この人が、自分にも血がつながるはるか昔の先祖だと思うと、不思議と手のひらが熱くなる感じがあった。

拓海は、初代の清胤と、二代目の宗胤の姿を交互に見比べた。
親子でこうも印象が違うものなのだろうか。

少し先を歩いていた瑞希が戻ってきた。
拓海は、初代の旧称を見つめていた。

「牧野清胤…旧称、牧屋清兵衛?」

拓海は札の文字を読み上げた。

「どういうことだ、これ。名字じゃなくて、屋号だったのか」

「昔はそうだったみたい。牧野って名に、すごくこだわった人だったって聞いてる。もっと前は豪農だったらしいけど」

瑞希はそう言ってから、写真の男を見上げた。

「この家を、名家にしたかったんだと思う」

「なるほど。だから、二代目の人とは、全然雰囲気が違うのかな」

拓海は二代目の宗胤を見ながら言った。

「この人だけ、ほかのご先祖さまたちと…なんか違うもんな」

「でしょ」

瑞希がうなずくと、肩にかかった髪がさっと前に揺れた。

「子どもの頃、いつも苦手だった。お父様を呼ぶとき、ここを通っていくと、二代目様だけ、なんかいまでも生きてるみたいな怖さがあって…ご先祖さまなのにこんなこと、言ったらダメなんだけど、心の底を見てくるような感じで…」

「怖いというか、ちょっと違うな。怒ってるように見える」

「牧野家の当主に、それを期待するほうが間違いです」

「それ、宗一郎おじさんに聞かれるとやばいぞ」

「もちろん。オフレコでお願い」

二人が奥文庫に入ると、屋敷の喧騒がぱったりと区切られたように静まり返った。

室内灯をつけるまもなく、乾いた紙と防虫香の匂いが、暗がりからゆっくり押し出されてきた。

八畳ほどの部屋の三方に棚が組まれ、和綴じの冊子、革紐で括られた帳簿、細長い地図筒、桐箱が隙間なく並んでいる。

窓は小さく、格子の向こうから差す光は、部屋の半ばまでしか届いていなかった。光の当たるところでは紙の端が黄ばんで見え、影に沈んだ棚の奥では、墨書きの背表紙だけが黒い目のように並んでいた。

入口近くの棚には郷土史や祭礼写真、奥の棚には土地台帳や山林資産整理帳、寄進記録の文字が並んでいる。

それぞれの札は、細い筆文字で書かれている。どれも古びているのに、いまでも書き手が息づいているように、その当人の特徴がしっかりと浮かび上がっていた。

二人は棚に沿って歩き、背表紙の札を順に追った。

「ここ、図書館っていうより、屋敷の物置みたいだな」

「そんな下品な」

瑞希は、光の中できらきらと光ったホコリを目にして、嫌そうに一歩退いた。

「だって、ここに土地とか家系とか、全部詰まってるだろ。俺達のご先祖さまって、ずっとさかのぼれば、もとは室町時代からだっけ?」

「違うよ、平安時代末期からって。なんだったかな。
源氏の部下として、いまの岩手県らへんの戦争で馬の管理役としてついていって、その後に山梨に移り住んだとか…昔過ぎて、本当なのかはわからないけどね。お父様は、清胤さんの時代からずっとそう伝わってる、って言ってたけど。でも、ちょっとマシな言葉遣いにしてくれない?」

「気をつけるよ。でも今度、ブログに書かせてほしいな。かの名家、牧野家の偉大なるご令嬢の牧野瑞希さまのご厚意に預かり、特別取材を敢行しました、って。これでまた、PVも爆上がり決定だよ」

「たぶん…書き手のことを、ひどい頭の迷惑系の人って思うだろうけど…」

「もう少し、褒めてくれよ…」

二人は、束ねられた和綴じの帳面を、順に指でなぞっていく。
奥の棚には、寄進記録、寺社関係、祭礼記録、時計台修繕控があった。

「これ、誰かいじってるな」

拓海は山林資産整理帳を見た。
並んでいる順番がおかしかった。

壁に並んでいる山林資産整理帳は、いずれも年代ごとのはずが、途中から一九〇六、一九一四、一九二八、一九三七、一九四三、一九四九が、横並びに入れてあった。

「大正の帳面が、明治の間に入ってる。変だね」

二人は脚の高い卓の上に、そのうち一冊、一九〇六年度のものを広げた。
ホコリが拭われた跡があり、ぱらぱらとめくると、売却履歴のページだけ、綴じ目のところに白い折れ筋が入っていた。
古い紙の折れではなく、最近、無理に開いて押さえつけたような皺だった。

それは、並び順のおかしな山林資産整理帳のいずれも同じだった。
拓海は帳面のページを見つめた。

「裕治おじさんは、なんで今更これを?」

「わからない。お父様と山について、話したのかも」

「にしては、年度が古すぎるだろ。ひらいているから、たぶん、スマホで写真を撮ったんだろうけど…おじさんは開発資料を見に来たんじゃないかもしれない」

「何を見てたの」

「わからない。でも、年度のやつに関連してるかも」

拓海は、山林資産整理帳を取り出した位置に戻すと、室内をスマホで撮影していく。

「貴重なんで、もう少し見ておくか」

「え? もう出ようよ。髪、ほこりっぽくなっちゃう。もったいない症候群はやめて」

「まったく、お嬢様は、貧乏人のお気持ちはわかってくださらないようですね…おじさんに怒られないように、見られるうちに、見ておきたいんだよ」

そして拓海が古い由緒控を取って、手のひらで表紙のほこりをはたいたときだった。
一枚の折りたたまれた紙片が、隙間からはらりと落ちた。

「なんだ、これ」

黄ばんだ古い紙だった。パサパサしている。
拓海は破れないように丁寧にひらいて、その文字を目で追った。
いつの時代のものか、わからない。
クセが強いが、達筆な文字で書かれていた。

『牧野家危急の折には、牧野を護りし者の在所を探るべし。時告ぐるもの、馬の眼を開かん。』