第九章:名の戻る夕暮れ

拓海は目を覚ました。
鼻に、真新しい畳のい草の香りが胸いっぱいに広がったが、自分が今どこにいるのか、まったくわからなかった。

目をひらくと、低い机と、壁にかけられた古い馬具の絵が映った。
窓の向こうでは、薄くなった夕方の光がぼんやりと陰り、風にさざなみのような音を立てている竹の葉の影を畳に落としていた。

そうだ、客間だ。
瑞希に無理やり休まされたのだと思い出した途端、眠りの底から意識が一気に引き上げられた。
スマホを見ると、三分前に届いた瑞希のメッセージ、『チェシャ猫です!』という謎の文字が、白いバルーンに浮かんでいた。

拓海は畳に手をついて、体を起こした。
少し眠ったおかげで、だいぶ体はすっきりとしたのだが、まだ節々に疲れが抜けきっていない感じはあった。
だが、頭の中は妙に冴え冴えとしていた。

すると、廊下から駆け足の音がした。
その音は、ひとりではなかった。
二人、三人と続いていく。

板張りの廊下に体重のかかった音がして、板が悲鳴を上げる。
襖の向こうを黒い影が横切り、誰かが「達弥さまは」と押し殺した声で言った。

次の声は、もっとはっきり聞こえた。

「裕治さまだったそうです」

拓海は、眠気が完全に消えたように目を見ひらいた。

拓海は襖を開けた。廊下には、夕方の青みを帯びた光が細く伸びていた。庭に面した障子の向こうで、植え込みが黒い影になりはじめている。
昼間には白く見えていた壁も、いまは灰色に沈み、屋敷全体が夕暮れの中でひと回り古くなったように見えた。

使用人の女が、盆を持ったまま足早に通り過ぎようとして、拓海に気づくと一瞬だけ頭を下げた。顔はこわばっている。

「何かあったんですか」

聞くと、女は答えるべきか迷うように唇を動かした。

「警察の方が……その、裕治さまで、ほぼ間違いないと」

「ほぼ?」

「指紋と……歯の、治療の記録が合ったとか。詳しいことは、まだ、とおっしゃっていました」

拓海は、頭の奥が揺さぶられて、喉の奥が詰まるのを感じた。

子どものころ、庭でキャッチボールをしてくれたこと。
大学在学中の駆け出しの頃に、何度か小さな案件を回してくれたこと。
冗談交じりに「若いうちは、転んでもいいから走っとけ」と言われたこと。

その人が、時計台の下で焼けていたことが確定してしまった。
だが、あんな異常な自殺をするものだろうか。

拓海は廊下を歩き出した。足音を立てないようにしているつもりなのに、板がかすかにきしむ。
廊下の奥では、人々が集まっていた。広間の襖が開け放たれ、その向こうに親族たちの顔がいくつも浮かんでいる。

明かりが足りないせいで、顔の上半分だけが暗く見えた。
誰もが同じ方向を見ている。大広間の中央には阿部警部が立っていた。

「皆さんにとって、つらいお話になります」

阿部は、そこで一度だけ視線を落とした。
その声は低く、重かった。

「正式な鑑定書はこれからですが、昨夜のご遺体は牧野裕治さんと見て、ほぼ間違いありません」

宗一郎は、座布団の上に座っていた。背筋は伸びている。
しかし、その姿勢の硬さは、威厳というより、崩れ落ちないために自分自身を支えているように見えた。頬の線が、昨日より深い。目の下には影がある。

拓海は視線をさまよわせると、広間の隅に達弥を見つけた。

顔色はかなり青白かったが、泣いてはいなかった。
口を半びらきにして、柱に背をもたせている。
左手で右側の袖口の銀色のカフリンクスを所在なげにもてあそびながら、じっと阿部を見ている。

その達弥を見るように、和樹が柱の近くに腕を組んで立っていた。
小首をかしげて、眉間に深い皺を刻み、シャツのカラーでもいじくるように、首周りに指を走らせている。
厳しく口を引き結んで、視線を一切そらしていなかった。

「裕治だったのか」

宗一郎が、かすれた声で言った。

「顔は、もうわからなかったのだろう」

阿部はゆっくりうなずいた。

「残念ながら。首から上の焼損が激しく、顔貌による確認は困難でした。ただ、手指の一部は照合可能な状態でした。また、歯科治療の記録が取れましたので」

親族の女が小さく泣き声を漏らした。すぐに隣の女が肩を抱く。
畳の上に置かれた湯呑みが、誰かの手に当たってかすかな音を立てた。
どこからか、白檀の香りが漂ってきた。

拓海は、胃の奥に重さを感じた。
寝起きの身体に、現実がいきなり流し込まれたようで、昔の思い出との比較に耐えられずに目をそむけた。

車を見に行こう。

自分のワゴンが玄関脇に置かれたままになっている。警察が屋敷の入口を封鎖している以上、勝手に動かすわけではないが、仕事の荷物もある。LEDランタンもある。
何か必要なものがあれば確認しておきたかった。
そう思ったのは、半分は逃げだった。

いまは少しでも仕事でもして手を動かしていないと、格式ある人たちよりも自分が卑小であるように感じて、気が滅入ってしまう。

玄関へ向かうと、屋敷の空気はさっきよりさらに慌ただしかった。

柱の陰を、黒い服の使用人たちが行き来していた。
廊下を通ると、急な滞在のせいか、親族たちの服装は、多くが浴衣や地味な羽織姿に変わっていた。

庭から入る夕光は赤みを帯びて、長い廊下の奥にある燭台型の電灯の金具を朱色の混じった赤金色に変えている。
格子戸の向こうでは、警察車両の赤色灯が、まだときおり白壁を濡らしていた。

玄関の式台に近づいたところで、拓海は足を止めた。

瑞希がいた。
生成りのカーディガンを羽織って、髪を後ろで軽くまとめている。
夕暮れの橙色と紫の混じった光が、玄関の石敷きを濡らしていた。

その隣に、見知らぬ女性が立っていた。二十代半ばか、それよりも少し上くらいだろうか。

落ち着いた紺色のワンピースに、薄いグレーのカーディガン。長い髪は低い位置でひとつに結ばれている。派手なところはない。耳元の小さな真珠も、薄い色の口紅も、目立つためというより、人前に出るための最低限の礼儀のように見えた。
肩にかけた革のバッグは、角が少しだけ擦れて色が薄らいでいた。飾りより、毎日きちんと使われてきたものの形をしている。

瑞希が拓海に気づいた。

「あ、拓海さん」

その声に、女性もこちらを向いた。
眉尻が落ち込んだように下がっており、目元が少し赤い。困惑と不安が混じった顔だった。

「起きたんですね」

拓海は無造作に後ろ頭をかいた。

「まあ、屋敷であんなことを聞いたから」

拓海が言うと、瑞希は一瞬だけ目を伏せた。

「裕治おじさまのこと、聞きました?」

「…聞いたよ」

「そう」

短いやり取りで済んだ。互いにそれ以上を言わなかった。
瑞希は女性へ向き直る。

「こちら、川端拓海さん。遠い親戚で、昔からうちに出入りしている人なんです」

それから拓海へ向いた。

「こちらは、中野かすみさん。達弥さんの婚約者です」

拓海は軽く頭を下げた。

「川端です。はじめまして」

「中野かすみです。すみません、こんな時に」

かすみは丁寧に頭を下げた。
声は震えていたが、頭の上げ下げはしっかりとしていた。礼儀は崩れない。
常に人前で慌てずに立っているような、静かな踏みとどまり方だった。

「今日、祭りの前に一度こちらへ来るように、達弥さんから言われていたんです。でも、電車の乗り継ぎが少し遅れてしまいまして。駅からタクシーで来たら、門の前に警察の方がいて、何が起こったものかと」

かすみは玄関の外へ目をやった。

「何があったのか、全然わからなくて」

瑞希が、かすみの手元を見た。
バッグの紐を握る指が白くなって、震えていた。

「今、説明したところです」

「裕治さんが…亡くなられたなんて」

かすみは声を落とした。

「二週間前に、お会いしたばかりだったんです」

「裕治さんと?」

「はい。達弥さんと一緒に。ほんの少しですけど」

かすみはバッグの紐を握り直した。

「そのとき、変なことを聞かれました」

「変なこと?」

「古い女物の装身具です。簪とか、櫛とか、帯留めとか……あと、舶来のブローチやロケットペンダントのようなものも」

「中野さん、お詳しいんですか」

拓海が尋ねると、かすみは小さく頷いた。

「高校では国語を教えています。ただ、郷土史研究会の顧問もしていて、昔の写真や服飾資料を見ることがあるんです。裕治さんはそれをご存じだったみたいで」

瑞希が眉を寄せた。

「裕治おじさまが、そんなことを?」

「ええ。明治の終わりから大正の初めごろの旧家の女性が、どういうものを持っていたか知りたい、と」

「なぜそんなものを」

「教えてくださいませんでした。ただ…」

かすみは一度、言葉を飲んだ。

「金目のものというより、女の人の持ち物に近いかもしれない、と」

「女物…」

その言葉が、玄関の空気に薄く残った。
山林資産管理台帳を調べていたのは、裕治だろう。
だがその人物が、女物の装身具まで探っていた理由とはいったいなんなのだろうか。

そのとき、廊下の奥を森拓己が通った。
その瞬間、かすみのバッグの紐を握る指が、きゅっと白くなる。

森の足取りは相変わらず軽い。
警察に何かを聞かれたあとらしく、片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手で前髪を直していた。
こちらに気づくと、爽やかな顔を向けて、口の端だけで笑った。

「おや。ずいぶん静かな方が増えたね」

森はかすみの顔を見て、口元だけで笑った。

「達弥さんの関係者?」

かすみの顔が、目に見えてこわばった。
背筋は伸びたままなのに、肩だけが半歩後ろへ逃げていた。
教師としての礼儀が、嫌悪感をぎりぎりのところで押しとどめているようだった。

森はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、軽く肩をすくめてそのまま通り過ぎていった。

ややあって、瑞希がかすみの顔を見た。

「知ってる人だったんですか?」

かすみはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。

「少し、場所を変えてもいいですか」

三人は玄関脇の小部屋に移った。

そこは来客の荷物置きや、短い待機に使われる部屋らしく、壁際に低い棚と古い火鉢が置かれていた。
窓の外には、白砂の小さな庭があり、夕方の光を受けた石が青白く沈んでいる。部屋の隅には、馬の絵が描かれた小さな衝立が立っていた。

かすみは座布団に腰を下ろし、膝の上で両手を重ねた。

「確かな話としては、言えません」

かすみは最初にそう言った。

「教師の立場で、噂だけを口にするのは、本当はよくないんです。でも…」

「でも?」

「何度か、同じ名前を聞きました。卒業生や、その周辺の子たちから」

「森さんの名前を?」

「はい。撮影の仕事を紹介するとか、モデルに向いているとか。そういう言葉で若い女性に近づく人たちの中に、あの方の名前が出たことがあります」

かすみはゆっくりと単語を選んでいた。
本人の倫理観を表明でもするかのように、ひとつずつ単語を。
教師として、誰かの人生を軽々しく話したくはないのだろう。
目の奥の光が暗い色に変わっていた。

「もちろん、はっきりとした証拠を見聞きしたわけではありません。ただ…少なくとも私は、信用できる人だとは思っていません」

瑞希の口元が、わずかに固くなった。

「そんな感じ、ありますね」

「うん、わかる」

拓海が言うと、瑞希は横目で見た。

「そうなんですか?」

「俺はいつでも素直ですとも」

「また…そういう嘘、言わないで」

かすみが、そのやり取りを見て、少しだけ目を瞬かせた。
緊張の中で、意外なものを見たような顔だった。

そのとき、廊下の向こうから達弥の声が聞こえた。
どこかに跳ね返っている声の感じだった。

「はい。ええ、取引先には私から連絡します。いまは警察の確認が先ですから」

かすみははっとして立ち上がった。

「達弥さん」

部屋の外へ出ると、達弥が廊下の端で電話をしていた。
目の奥は暗く沈み、顔色はさらに悪くなっている。だが声は仕事用の声だった。低く、短く、必要なことだけを相手に渡している。

達弥はかすみに気づくと、ほんの一瞬だけ目を見開き、声のトーンが下がった。

「…かすみ」

その一言だけは、ひどく頼りなかった。
だが、電話の向こうで誰かが何かを言ったらしく、達弥はすぐに顔を戻した。

「すみません。役員には私から連絡します。ええ、母にはまだ――」

かすみが一歩近づき、まるですがりつこうとでもするかのように、半ば片手を上げた。

「達弥さん、大丈夫ですか」

達弥は片手で待ってくれと示した。

「ごめん。あとで。必ず行く」

「はい。私は、ここにいます」

達弥の目が一瞬だけ揺れた。

「…すまない」

かすみはすぐに引いた。その動作は落ち着いていたが、肩のあたりが少しだけ沈んだ。達弥は何か言いたそうに唇を動かしたものの、すぐに電話の向こうへ意識を戻した。

「はい。葬儀の話はまだです。正式な手続きが先になりますから」

拓海は、その横顔を見た。

瑞希が、かすみの肩にそっと触れた。

「今夜、泊まっていかれますよね」

「でも、ご迷惑では」

「この状況で帰るほうが大変です。それに、達弥さんもそのほうが安心すると思います」

瑞希は廊下にいた使用人を呼んだ。

「中野さんのお部屋をお願いできますか。明日までいらっしゃいます」

使用人はすぐに頭を下げた。

「承知いたしました」

かすみは申し訳なさそうに礼を言って、使用人のあとについて行った。

二人で広間へ戻る途中、女性の親族が二人、廊下の角に立っていた。年に一度顔を合わせるかどうかの、やや遠い親族だ。
片方は五十代くらい、もう片方は三十代後半ほどで、二人とも着物をきちんと着ている。

「瑞希さん、少しお顔の色が戻られましたね」

年上の女が、拓海のほうをちらりと見た。

「川端さんがいらっしゃると、安心なさるのかしら」

拓海の足が止まりかけた。
瑞希は表情を変えなかった。柔らかな笑みを作り、ほんの少しだけ首をかしげる。

「昔から、気心の知れた方ですので」

「ええ、本当に。小さい頃から仲がおよろしいとは思っておりましたけれど、今も変わりませんのね」

もう一人の女が、目を細めて、片手で口元を隠した。

「こういう時に、心を許せる方がいらっしゃるのは、よいことですわ」

瑞希は、ほんのわずかに背筋を伸ばした。

「お気遣いありがとうございます」

それだけ言って通り過ぎた。
角を曲がったところで人目がなくなると、瑞希は小さく息を吐いた。

「今の、聞いた?」

「聞かなかったことにしていい?」

「無理だね」

「お前、平気そうな顔してたけど、大丈夫か?」

瑞希が頭を左右に振ると、天井の照明に艶のある髪が濡れたように光った。

「平気じゃないから、平気そうな顔をするんです」

その言い方が、妙にこの家らしかった。

広間の端には、茶と菓子が用意されていた。夕方の光はもう弱く、使用人が燭台型の電灯をいくつか点け始めている。白い壁に、暖色の光がゆっくり広がった。昼の白さが消えると、屋敷はまた別の顔になる。

拓海と瑞希は、軒に近いところの広間の端に腰を下ろした。
大多数は客間にでも戻ったのだろう。残っていたのは、高齢の親族たちが三人だけで、互いに離れている。

拓海は、小皿の煎餅を一枚取った。
アジの煎餅らしい。なぜ屋敷でこんなものが出るのかは謎でしかないが、アジだけにいい味があるかもしれない。
拓海は、父譲りのくだらない言葉遊びを思いついて、少し嫌になる。

だが、口に入れても、歯ごたえはあったが、アジの味はあまりしなかった。

「馬の眼、か」

瑞希が呟いた。

「この家、馬が多すぎるんだよな」

拓海は広間を見回した。

欄間には馬。釘隠しにも馬。衝立にも馬。掛け軸にも馬。蹄鉄の意匠、鞍の絵、古い絵馬まである。
牧野という名に引きずられているのか、それとも家が意識して集めたのか、屋敷のそこかしこに馬の影がいる。

「目と言われてもな…この屋敷の馬の目なんて、いくつあるんだよ。子どもの頃に入ったところも含めたら、母屋だけでもきっと千個は超えてるぞ。それにどこにあるかって考えたら…母屋と庭だけでも三千坪くらいもあるんだろ。
それだけじゃなくて、馬がありそうなところと言えば、時計台も入るだろ。
あの半島状のところまで調べるとなると、どのくらい時間がかかることやら…考えただけで頭がバカになりそうだよ」

「私の部屋の花瓶にもあったよね。馬蹄の紋様が」

「そうだったか? そんなのは、なかっただろ」

その途端、瑞希が目を細めて、少しだけ呆れたような色を見せた。

「覚えてないの?」

「何を?」

「ふぅん。中学二年の頃のこと。友達の小説を水浸しにしたこと」

拓海は思い出した。
中学二年の秋、瑞希の前でいい格好をしようとして、花瓶を倒したことがある。水は、友達から借りていた小説を直撃した。最初は意地を張って謝らず、結局、隣町まで同じ本を探しに行く羽目になった。
それでも瑞希は五日間、口をきいてくれなかった

「はい、完全に思い出しました…」

「まったく、馬を欲しがる鹿さんは、昔から人を待たせてばかりね」

瑞希は鼻を鳴らすように顔を空に向けて、滑稽なくらいわざとらしく胸を張った。お嬢様の顔を作っているつもりなのだろうが、拓海にはただ拗ねているようにしか見えなかった。

「俺、馬鹿ってことかよ…そういえば、馬の守り神みたいなものはないのか」

拓海は、これ以上続けると際限なく話がそれそうだと考えて、別の話題を出した。

「目録とか、祭礼の記録とか。馬に関係するものが多すぎるなら、逆に管理していたものがあってもよさそうだけど」

「また書庫を探す?」

二人の声が聞こえたのか、老人が声をかけて、歩いてきた。片手には湯飲みを持っているが、湯気は立っていなかった。

「馬といえば、庭の端に馬頭観音があるよ」

拓海と瑞希は同時に顔を上げた。

老人は、やや眠そうな目をこすりながら続けた。

「すまんね、昨日からあまり眠れておらんで…東の庭の奥だ。黒松の向こうに小さな石像がある。昔は馬の供養だの、旅の安全だの、そういう意味で祀っていたらしい。馬頭観音は、疫病のお祓いやらも絡んどるからな。ま、今は誰も見に行かんがね。わしもそろそろお暇させてもらうよ」

二人が一礼すると、老人はうなずき、ゆったりと離れていく。ふすまの馬蹄を模した引き手に手をかけると、腰をかがめた姿勢が野草の描かれた襖に遮られて消えた。

「馬頭観音…馬…」

瑞希が小さく繰り返した。

拓海は紙片の言葉を思い出した。

時告ぐるもの、馬の眼を開かん。

馬の眼。

馬頭観音。

偶然かもしれない。だが、この屋敷では、偶然が古い埃をかぶってこちらを待っているような気がする。

「今から見に行くか」

拓海が言うと、瑞希は立ち上がった。

二人は少しだけ距離を置いて、東側の廊下を歩いていく。
だがその途中で、急に瑞希がはたと足を止めた。

「…そういえば」

瑞希は拓海を見た。顔から血の気が引くというほどではないが、明らかに別の種類の焦りが浮かんでいた。

「鍾乳洞の防水バッグ」

拓海の背中に、冷たいものが走った。

完全に忘れていた。

そして、事件が起こったあの日、瑞希と一緒に昼前から鍾乳洞へ入って、折りたたみ式のテントの中で二人の時間を過ごしていた映像が、切れ切れのショート動画のように脳裏によぎった。

そのとき、防水バッグを奥の乾いた岩棚に置いていた。本当は屋敷からの帰りに回収するつもりだったが、屋敷に戻った直後、森が現れ、親族が集まり、会食に参加することになり、夜には火だるま事件が起こり、それどころではなくなっていた。

拓海がさっと周囲に首を巡らせると、遠くのほうを使用人が歩いている。おまけに、柱で向こう側からは見えにくいだろう。

「…置いたままだ」

拓海が言うと、瑞希は目を閉じた。

「中身、何が入ってたっけ」

「タオル、着替え、モバイルバッテリー、飲み物、お前のヘアゴム、あと…」

中身が目に浮かんで、言葉が詰まった。
瑞希がゆっくり目を開ける。

「あと?」

「ウェットティッシュ」

「どのくらい?」

「…大容量。五つはあっただろ」

瑞希は無言で拓海を見た。だが、目だけが据わっていた。

「いや、これは違う。あると便利だろ。洞窟は湿ってるし、手も汚れるし、汗もかくし、濡れるし…いや、何を言わせてるんだ? これは、完全に合理的だから」

「誰に説明してるの」

「自分に、いや社会に」

「社会は聞いてくれないよ」

拓海はうつむいた。

ほとんどのものは説明できる。鍾乳洞に入るなら、タオルも着替えも飲み物もおかしくはない。
問題は、説明できるものが多すぎることだった。

二人のものだとわかる私物が一緒に入っている。
しかも、あの量のウェットティッシュだけではない。
見つけた人が、見過ごしてはくれないだろう小物も、奥のほうに入っている。

ひとつひとつは単独であれば無視されるかもしれない。
だが全部そろっているのを見れば、誰がどう考えても、普通の洞窟散策にしては不健全と言われかねない不用品そのものだった。

もし見つかっても、警察に捕まることはないだろう。
だが、別の意味での尋問が始まって、まだ名前を決めていない二人の関係が、勝手に赤の他人に『醜聞』と名付けられて、最悪の形で広められてしまう。

拓海は脳裏に、この件が宗一郎と和樹に知られたところを思い浮かべた。
きっとあらゆる論理的な解答も許されない会議に招かれて、数時間かけてすべて吐かされたあと、屋敷のどこかの庭石の下に埋められてしまうに違いない。
あの二人に詰められて耐えられるのかと思うと、脇の下に冷や汗がにじむのを感じた。

瑞希が低い声で言った。

「警察が鍾乳洞を調べたら?」

「完全に終わる」

「何が?」

「いろいろ」

「具体的には?」

「俺の社会的な呼吸と、お前の立場も」

瑞希は、頭痛をこらえるように眉間を押さえている。

「共同呼吸停止ってところだな」

「ごめん、ジョークはやめて」

「うん。だからいまは真っ先にこっちをやらないと」

拓海は、瑞希が第三者からゴシップまがいのひどい辱めを受けた場面を想像すると、胸の奥が詰まるように痛みを覚えた。
たとえ自分が叩きのめされたり、罵られるのは仕方ないにしても、それだけは耐え難いものだった。

「馬頭観音どころじゃないんだ」

「いや、馬頭観音も大事なんだけど」

「だめだ、バッグだ。大至急、やるしかないだろ」

その声は、妙に現実的だった。

「でも昼間は無理だな」

拓海が庭を見た。
白い砂を撒いた石の海に、大きな庭石が巨大な亀のようにうずくまっている。
庭石には石英が混じっているためか、沈みつつある夕日を浴びると、磨き抜かれた大理石の墓のように、ちらちらと星屑のような光を照り返していた。

「警察も使用人もいるし、誰かに見られる」

「夜なら?」

「地下倉庫から行こう。あそこは天然の冷蔵庫代わりに使ってるだろ。奥の鉄扉から入ろう。デート…いや、間違えた。散策に使った方向なら、片道八分くらいだ」

「今、言い直したね」

「気のせいだ。俺は正常だぞ」

瑞希はじっと拓海を見た。
目を据えて、少し怒っているように口を結んでいる。

「でも、時計台方面じゃないよね」

「行かないよ。バッグは、いつもの場所だから」

「警察に関係ない?」

「関係ない。関係ないからこそ、見つかったら説明が最悪になる」

瑞希はしばらく黙った。

どこかの部屋で、親族たちのくぐもった声が聞こえた。誰かがすすり泣き、誰かが警察の動きを気にしている。

いまこの屋敷の上では、人が死んだ現実が重くのしかかっている。
その下で、自分たちは、防水バッグを回収する相談をしている。

拓海は、自分たちがかなり最低なことをしている気がした。だが同時に、あのバッグを放置するわけにもいかなかった。

見つかってしまえば、拓海がどれだけ叩かれようと、瑞希の名前は無傷では済まない。
牧野家でそういう話が出れば、事実よりも先に、形の悪い噂だけが廊下を歩き出す。そうなれば、もう取り返しがつかない。

「今夜だ」

「何時?」

「十一時半で」

「それはまだ危ないと思う。みんなが寝静まったあとにしようよ。警察の人も交代で見張ってるだろうけど、地下倉庫まではたぶん見てない。午前一時半くらい」

「遅いな」

「早すぎると、見られちゃうでしょ?」

拓海は頷いた。

「地下倉庫で合流だ。灯りは俺が用意する」

「スペア、あるの?」

「ある」

「なんで?」

「備えあればってやつさ」

「何への備えか、言わないで」

瑞希は冷たく言った。
拓海は無言でうなずいた。

屋敷の外は、すでに夕闇に沈みつつあった。
藍色が溶けた暗闇に、山々の輪郭は徐々に壊れて、掛け軸の中の水墨画のように変じつつあった。

庭の黒松の影が、まるで襲いかかるように障子にへばりついている。
ガラガラと雨戸を閉じる音も聞こえた。

やがて燭台型の電灯が灯り始めると、欄間の馬たちは、走るでもなく、止まるでもなく、影の中でこちらを見ていた。その目が、昼間よりも黒く見えた。

「裕治おじさま、悩んでいたのかな」

「いや、それは違う」

拓海はまるで言い咎めるように強く遮った。

「すまん、決めつけすぎだな。そしたら、なんで裕治おじさんは自殺するために、わざわざ時計台に入るんだ。なんで俺たちみんなに見せつけるように止まっていた鐘を鳴らす。そしてなんで自分に火をつけるんだよ。自殺にしては、おかしすぎるだろ」

「拓海はわかってないよ。鐘を鳴らす理由とか、そういうことじゃないの」

瑞希の声は震えていた。

「牧野家のみんな、あの時計台のお話通りのことが起こったって、思ってる。みんな、見たんだよ。屋敷にいた人間が、あの話と同じものを…」

「瑞希…」

「でも、違うの。迷信深いんじゃないの。
ちゃんとした教育を受けた人ばかりで、達弥さんみたいに留学した人もいる。役職についてる人だっている。
それに、今の時代に幽霊がいるなんて、誰も思ってないはず。
けど、あのとき、みんな屋敷から離れていなかったのに、時計台で人が燃えるのを見たんだよ。だから、表立っては言わないけど…」

瑞希は怖気を払うように、少しうつむいた状態で頭を左右に振った。
まるでそれは、背後から目に見えない何者かがまとわりついてきたのを、体から引き剥がすような動作だった。

「ね、もし人間がしたってことだったら、誰がしたって言うの? あのとき、お父様も、兄様も、達弥さんも、それに拓海も…それだけじゃない。お手伝いさんたちだって、誰にも見つからずにこっそり時計台に行って、戻ってこれるはずなんて、ないんだよ」

瑞希の声が、だんだんと沈んでいく。

「もし拓海の言うことが合ってたら、私たち、いまもその人と一緒に…ううん、無理。それだったらいっそ、あそこで燃えたお妾さんがやったって思ったほうがまだ…」

「瑞希、落ち着け。わからない。まだ何もわからない。俺が言ったのも、いまの段階で考えられることだけなんだ。
それによく考えろ。
そのお妾さんの幽霊が、俺たちみんなに時計台を見させるために、打鐘器を復活させるか? だから、あの時計台には、少なくとも九時過ぎには誰かがいたのは――」

「もう言わないで」

瑞希が小さく言ったので、拓海は黙った。

「拓海」

「何」

「先、行かないでよ」

拓海は、彼女の顔を見た。

夕方の光と電灯の明かりが混ざって、瑞希の横顔は蝋でも塗られているかのように少しだけ青白く見えた。強がっている。だが、その指はカーディガンの袖を握っていた。

「行かないよ」

「…ほんとに?」

「ほんと」

「拓海のほんとって、たまに穴がある」

「今回は石灰でばっちり塞いでおく。先についたら待ってるから、安心しとけよ」

瑞希は少しだけ笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。

廊下の奥で、誰かが低い声で「裕治さま」と呼んでいた。
焼けた顔のない死体に、牧野裕治という名が戻った。

拓海が庭を見ると、徐々に明るさと色彩が夕闇に削られていた。
はるか遠くでは、黒い鏃の集まりのようなカラスの群れが一斉に山に帰っていくのが見えた。

牧野家のただっ広い敷地のどこかに、まだ見に行っていない馬頭観音が口もひらかずに沈黙しているはずだった。

廊下を大きくまわって戻ろうと二人が歩いていくと、屋敷の西側、半島状の土地に鎮座する時計台が見えた。
その白く輝くひとつ目のような文字盤は、すでに七時四十分を指していた。