二人が瑞希の部屋を出たとき、廊下の先に、人影がひとつ見えた。
薄い灰色の着物を着た使用人の女だった。年の頃は四十を過ぎているだろうか。見知った顔である。
振り返ろうとする気配もなく廊下の角を曲がるその後ろ姿は、急いでいるようにも、見なかったふりをしているようにも見えた。すり足のように歩いて、足音はほとんどしなかった。
瑞希の指先が、ぴくりと強ばった。
「…見られた」
小さな声だったが、はっきりと青ざめていた。
拓海はとっさに、「わからないだろ」と返したが、その声は妙に冷えていた。
見られたのかもしれない。
見られていないのかもしれない。
だが、この家でいちばん厄介なのは、その内容の真偽が確かめようがないのにもかかわらず、空気だけが先に伝わって、水面の波紋のように広がっていくことだった。
瑞希は扉の前に立ったまま、さっきまで部屋の中で見せていた柔らかい表情を、きれいに失っていた。
「どうしよう」
「まだ決まったわけじゃない」
「でも、ああいう人ってすぐわかるでしょ。拓海、変なふうに責任取ろうとしないでよ」
「変なふうって何だよ」
「…何でもない」
瑞希はそこまで言って口をつぐんだ。
長年出入りしていたのだから、この家のどこかでは、とっくに感づいている者はいたのだろう。
ただ、普段は鍾乳洞で会っていたから、表に出すほど確かな形を掴めていなかっただけで。
拓海は瑞希の肩に手を置こうとしたが、その寸前でやめて、手を下ろした。
ここはもう、部屋の中ではない。
廊下の半分、外に面した側が、月明かりと蛍光灯で白っぽく濡れていた。
屋敷の入口側に連れて、壁には古い燭台を模した電灯が一定の間隔で並んでいる。
「落ち着け。仮に何か聞かれても、言いようはあるだろ」
「言いようって」
「ちょっと待ってろ。いいアイディアを…考える」
拓海は自分でも驚くほど早くそう答えた。
しかし、その内心は穏やかではなかった。
不意にひどく黒い考えが胸の底をよぎった。
もし、本当にバレていたら。
もし、宗一郎が怒って瑞希をこの家から追い出すようなことになったら。
だったら、いっそ堂々と一緒に暮らせるんじゃないか。
そうなれば、瑞希も自分を頼らざるを得ないから、ついてくるしかないだろう。
だが、それを意識した瞬間、自分でぞっとした。
それは瑞希のためじゃない。
自分の浅ましい欲望のためだ。
この家から彼女を奪い取れたら、という、あまりにも身勝手な願望だ。
瑞希をひとりの女性として扱っているのではなく、トロフィーか何かとして扱っているに等しい。
この家を嫌っているのは瑞希であっても、ここを失うことが彼女にとって傷にならないわけがない。
追い出されることを『都合がいい』と感じた時点で、自分はかなりろくでもない。
拓海は、明日の朝に鏡を見たくはないなと感じながら、一度目を伏せた。
「仕事の話にすればいい」
瑞希が顔を上げる。
「仕事?」
「俺の。ほら、この前頼まれてたろ。ブログに掲載するための祭りの告知用の写真とか、地元の店の宣伝用に使う案とか。俺が、女性向けに品のあるものはどんなものなのか、そういう相談をしてたことにする」
「部屋で?」
「人前じゃしにくい話だった、で押す。お前の部屋のほうが資料も見やすかったとか、仕事上の機密情報も扱ってたとか、どうとでも言えるさ」
拓海は努めて明るそうに表情を変えると、頭の中で次々に辻褄をつなぎ直した。
自営業でやっている仕事の延長線上なら、地元の宣伝や告知、販促の相談という形にできる。宗一郎が好む言い訳ではないだろうが、少なくともまったくの無関係な密室には見えなくなる。
「祭りのパンフレットでも、特産品の紹介でも、土地の写真でもいい。お前が家の顔だから、協力してもらってたってことにする」
「もし…もっと、何か嫌なこと、言われたら?」
「平謝りしておくよ。ムカつくけど、受け流していたら、数日もたった頃にはみんな忘れてるだろ」
瑞希はしばらくじっと拓海の顔を見ていた。
それから、少しだけ唇をゆるめる。
「…そんなにすらすら出てくるんだ」
「必要ならな」
「そういうの上手いよね、拓海」
言葉の最後に、微妙に笑いが混じった。
「そんなに嘘つくのが上手いんだから、外でもいろんな女の人たちに声をかけてるんじゃないの」
拓海は思わず眉をひそめた。
「そんなこと、する必要ないって。そんなに女性に飢えてないから」
「そうなんだ」
「俺は」
拓海はちらっと廊下の奥を見た。
障子は閉まっているし、声は遠くから小さく聞こえるだけだった。
しかし、何かを命じられた使用人たちの足音は、ぱたぱたと聞こえている。
「特定の人以外にする気はないから」
言ってから、我ながらひどく苦しい強がりだと思った。
瑞希もたぶんそう思ったのだろう。彼女は返事をせず、ただ、何か言いたそうに拓海の顔を見つめてきた。
拓海は視線をそらしたくなったが、心の底を射すくめられたように感じて、そらせなかった。
「…何」
「別に」
瑞希はそう言って、ほんの小さく鼻で笑った。
けれどその笑みは、さっきまでのこわばりを少しだけ追い払っていた。
「行こ。戻らないと、もっと怪しまれるかも」
二人は並んで廊下を歩き、親族たちのいる広間のほうへ向かった。
途中から、瑞希の歩き方が変わる。
背筋が自然に伸び、足運びが静かになった。
顔の筋肉の置き方まで、どこか別のものになる。さっきまで自室で見せていた倦んだ女の顔ではなく、この家の娘として人前に出るときの顔だ。
広間へ戻ると、瑞希は親族の前で、柔らかな笑みと上品な声をきちんと使い分けながら挨拶を始めた。
「遅くなってしまって、申し訳ありません」
「いいえ、すぐ参りますわ」
「そうですの、今年も賑やかになりそうで」
集まってきた従姉妹たちと話しているときも、内容は普通のことでも、上品な所作を崩さない。
拓海は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
やっぱり、と思う。
瑞希は生まれながらのお姫様なのだ。
どれだけこの家を嫌いだと言っても、こうして灯りの下に立つと、この家にふさわしい娘として見えてしまう。
その姿を見ていると、子どもの頃に読んだ話が、妙に胸の奥から浮かんできた。
古いが豪華な城で暮らしているお姫様の話だった。
彼女は大勢の使用人たちにかしずかれて、何ひとつ不自由なく優雅に暮らしていたが、退屈な生活に倦んでいた。
そんなある日、見た目も華やかで立派な肩書の王子様が現れる。
そしてお姫様は王子様と結婚して、末永く幸せに暮らした。
だが、その話の中に、自分みたいな男の居場所はどこにもない。
王子様でもなく、城の人間でもない。
せいぜい、途中で馬を引くか、荷物を運ぶか、城の修繕にやってきた石工か、それくらいが関の山だ。
たとえ憧れていたとしても、隣に立てるような威厳も権威も振る舞いもない。
どんなに頑張っても、『仕事』という名目でお近づきになることしかできないだろう。
胃のあたりが、じわりと痛んだ。
やがて次々と食事が運ばれて、夕食の席が整えられた。
広間の中央に長い食卓が据えられ、親族たちが順に席につく。皿はどれも丁寧に整えられていて、器もよいものばかり。
見た目だけなら、祭り前の華やかな親族会食に見えなくもない。
だが、実際にそこに流れていたのは、華やぎとはほど遠い空気だった。
土地の話ばかりなのだ。
「南側の山林は、このまま維持費だけかさんでも仕方がないでしょう」
藤井実が、口元にへつらうような笑みを浮かべて言う。
「整備だけでも進めておけば、将来的な選択肢は広がります。もちろん、宗一郎さんのお考えを第一にした上での話ですが」
宗一郎は箸を置きもせず、低い声で返した。
「第一にしているようには聞こえんな」
その言葉にも、藤井はまるで堪えた様子を見せなかった。
「いえいえ、とんでもない。ただ、いまのうちに手を打っておけば、外部の資本に振り回されずに済む、というだけです」
「外部の資本を連れてきたがる人間が、それを言うか」
その言葉に、親族の老人が口を挟んで、また話が広がっていく。
場の空気が、また重く沈んだ。
達弥はその脇で、あくまで穏やかな顔を崩さなかった。
森拓己は、席の末のほうでグラスを揺らしながら、半分楽しむようにその応酬を見ている。
そして瑞希の兄の牧野和樹が、盃で日本酒を飲みながら、あたりをゆったりと見回していた。
和樹はスーツ姿だった。
顔の作りは、兄妹だけあって瑞希とよく似ている。二人とも顔は母親似らしい。ほお骨が高く、唇は薄い。
人の底を読むような鋭い目を半ばひらいて酒を飲んでいるが、他人を小馬鹿にするような色が光った。
盃を傾けると、喉仏が大きく上下していた。
瑞希は上品に箸を使いながら、必要なとき以外ほとんど口を開かない。
その沈黙が、拓海にはむしろ無理をしているように見えた。
宗一郎が、不意に向かい側へ目を向けた。
「裕治はまだ来ないのか」
達弥は盃を置きながら答えた。
ほんのりと頬が赤くなっていた。
「数日前から、父しか知らない案件を詰めていまして。ぼくもお手伝いしようとしたのですが、『自分でやるから手を付けるな』と」
「あいつらしいな。しかし、利益の面でも回っているのならば、属人的なところも仕組みにして、誰かに任せようとは思わなかったのか? いずれお前がやることになるのだから、手離れしておけばいいものを」
「それが、父のこだわりなんですよ。ぼくも同じことを何度も言いました。でも、いくら言っても頑として頭を縦に振らないんですよ。ぼくもまだまだ実務を完全に掌握しているわけではありませんが、でも正直なところ、おじさんの言う通りだと思います」
親族の誰かが「たまにはサボってもいいぞ」と野次を飛ばしたが、宗一郎の睨みに気圧されて黙った。
「いやいや、お前は充分すぎるほどやっておる。謙遜しているようだが、すでに実質的には実務の大半を担っておるのは承知しておる。だが…もし会社のほうが厳しいなら、株のことで無理をする必要はない」
宗一郎は続けた。
「形を変えて資金援助することもできる。信頼できる人間を紹介することもできる。同じ親族のよしみだ。無理して見栄を張る話ではないだろう」
その言い方は一見、信頼できる親族としての配慮にも聞こえる。
だが食卓の上では、それはほとんど宣告に近い響きを持っていた。
お前たちが保てぬなら、こちらが手を入れると言っているに等しい。
達弥は一拍だけ置いてから、薄く笑った。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、こちらはこちらで、安定して利益を上げています。でも、おじさんの好意は、父に伝えておきます」
柔らかい返事のくせに、拒絶は明確だった。
藤井が、その間を埋めるように口を挟む。
「いやあ、皆さんがこうして将来のことを真剣に考えておられるのを見ると、やはり歴史のある家は違いますね。普通の地主さんとは、視座がまるで」
その媚びがかった言い回しに、拓海は思わずうんざりした。
宗一郎も同じだったのか、露骨に無視したまま酒を口にする。
やがて森が、ナプキンを置いて立ち上がった。
「じゃあ俺、そろそろ失礼します」
宗一郎が顔を上げる。
「今夜は泊まっていけばいい。部屋は充分あるぞ」
森はすぐに、いかにも感じのいい笑みを作った。
「ありがとうございます。でも、ホテルに部屋を取っていますので。それに、せっかくのご家族の団らんに、これ以上お邪魔するのも悪いんで」
いかにも筋の通った、無難な断り方だった。
だが拓海には、その整い方が妙に鼻についた。
この男は、人にどう見られると得かを、最初から最後まで計算している気がする。
「そうか」
宗一郎も、それ以上は引き留めなかった。
使用人に帰りの準備を手伝うように言い伝える。
森は皆に軽く会釈し、広間を出ていった。
しばらく玄関口のところで何か使用人と話している声が聞こえて、開き戸の音がした。
拓海がたまたま広間の大時計を見たところ、すでに7時を回る直前だった。
しばらくして、屋敷の外から音が聞こえた。低く響くスポーツカーの音が、門のほうへ遠ざかっていく。
食卓には、また土地の話だけが残った。
ふと視線を隣のほうにやると、瑞希が親族の男に酒を注いでいた。
男は宗一郎より少し若いくらいで、丸い肩をした、よく笑う人だった。
拓海も子どもの頃から何度か顔を合わせている。
盆や正月になると、子どもたちに菓子を配ったり、庭で転んだ誰かの膝を見てやったりするような人で、悪い人ではない。
むしろ、この席の中ではかなり気のいい部類に入る。
「いやあ、瑞希ちゃんも、すっかり大人になったなあ。あんなちっちゃくて、元気に走り回ってた女の子だったって、信じられんくらい美人になった。お母さんとそっくりだ」
男は盃を差し出しながら、しみじみとした声で言った。
瑞希は酒瓶を両手で持ち、盃の縁の少し下でぴたりと酒を止めた。指先の角度まで整っている。昔からこの家で見てきた、大人たちが好む所作だった。
「ありがとうございます」
「昔は拓海くんと一緒に、庭の石を集めてたろう。あれ、覚えてるかい。宗一郎さんにずいぶん叱られてた」
男が笑うと、近くの親族もつられて笑った。
拓海は箸を置いたまま、少しだけ目を伏せた。
覚えている。
庭石を宝石だと言い張って、瑞希と二人で手のひらいっぱいに集めた。
瑞希は白い石ばかり選び、拓海はなぜか黒い石ばかり拾っていた。
縁側に並べていたところで宗一郎に見つかり、庭を荒らすなと叱られた。
あのとき瑞希は、怒られている最中なのに、横目で拓海を見て笑いをこらえていた。
「懐かしいですわね」
瑞希は柔らかく笑った。
その笑みは、欠けのない皿のようにきれいだった。だが拓海にはわかる。今の瑞希は、思い出を懐かしんでいる顔ではない。この家の娘として、相手が気持ちよくなる返事を選んでいるだけだ。
「拓海くんのところは、たしか本家からだいぶ前に分かれた家だったな。ひいひい爺さんの代だったか」
男は悪気なく言った。
「はい。そんなふうに聞いています」
拓海は短く答えた。
「まあ、今どき本家だ分家だと言う時代でもないがね。昔はそういうのがうるさかったからなあ」
男は盃を傾け、また笑った。
その笑い声は屈託ない明るいものだった。
拓海は、その言葉に自分だけが異物のように感じて、胸に重苦しいものを覚えた。
拓海はこの屋敷に入れる。
親族の席にも座れる。
瑞希と昔話をしても、不自然ではない。
だが、土地の話にも、株の話にも、この家の先々の話にも、決して中心からは呼ばれない。
血は少し繋がっている。
けれど、その少しが、近さではなく距離を知らせてくる。
「瑞希ちゃんも、これからますます大変だな」
男は穏やかに続けた。
「宗一郎さんも心配だろう。こんなにきれいになったんだから、どこへ出しても恥ずかしくない」
その瞬間、宗一郎の箸が、ほんのわずかに止まった。
音はしなかった。
ただ、座敷の空気の端が、細く張ったように見えた。
宗一郎は何も言わず、ただ酒杯を持ち上げて、静かに口をつけた。
瑞希は酒瓶を置くと、両手を膝の上にそろえて、口紅の引かれた唇に笑みを作った。
「父には、いつも心配をかけてばかりですわ」
声は上品だった。場を乱さない、ちょうどよい温度の返事だった。
男は満足そうに笑った。
「いやいや、親はいつまでたっても心配するものだよ。拓海くんもそう思うだろう? 小さい頃から見ていれば、なおさらだ」
急に話を振られて、拓海は顔を上げた。
一瞬だけ、瑞希と目が合うと、彼女は笑っていた。
だが、目の奥が動いていなかった。
「…そうですね」
拓海はそれだけ言った。
それ以上は何も言えなかった。
宗一郎の前で、瑞希のために何かを言えるほど、自分はまだこの席の人間ではなかった。言えば、言葉ではなく、立場のなさだけがこぼれる気がした。
瑞希はまた別の親族に呼ばれ、静かに腰を上げた。
酒瓶を持つ手はなめらかで、足運びも落ち着いている。
誰から見ても、よくできた本家の娘だった。
そんなことを繰り返していた。
だからこそ、まずいと思った。
あの顔をしているときの瑞希は、たいてい一番疲れている。
拓海は、自分の前に置かれたグラスに目を落とした。
薄い茶色の液体が揺れて、天井の明かりが波打って映っている。
次の瞬間には、もう決めていた。
「すみません」
ちょうど瑞希が拓海の前を通るタイミングだった。
そう言いながら身を乗り出し、わざと手元を狂わせた。
グラスが倒れると、薄い茶色の液体が弧を描いて畳に弾けて、瑞希の着物の裾と足袋にかかった。
空気が、ぴたりと止まった。
瑞希が一瞬だけ目を見開いた。
だが、驚きより先に、わずかに息を呑むだけで耐えている。
「…ごめん」
拓海が立ち上がると同時に、宗一郎の怒声が飛んだ。
「何をしている!」
広間の全員の視線が突き刺さるように一斉に集まる。
拓海はその場で頭を下げた。
「すみません、手が」
「手が、で済む話か! どれだけ気をつければいいかもわからんのか! みなの前で娘に恥をかかせおって!」
声が広間の柱に反響した。
親族の前で怒鳴られるのは、思った以上にきつかった。喉の奥が熱くなり、みじめさが一気にこみ上げる。
だが、それでいい、と拓海は思った。
瑞希は使用人に囲まれて、別室へ着替えに下がることになる。
それだけで十分だった。
「本当に申し訳ありません」
拓海がもう一度頭を下げると、宗一郎は「下がれ」と吐き捨てるように言った。
広間を出たあと、拓海はすぐに廊下を曲がり、近くにいた若い使用人の男を呼び止めた。
ごま塩頭で実直な男だった。これまでも何度も見知っている。
「ちょっと頼みがある」
男は怪訝そうに立ち止まる。
拓海は人の気配を確かめてから、小声で言った。
「瑞希さん…じゃない、牧野さんの着替え、少し時間がかかるようにしてくれないか」
「え?」
「汚れが広がってるとか、帯まで替えたほうがいいとか、理由は何でもいい。とにかく、すぐ戻らなくて済むように」
男は困ったように目を泳がせた。
眉根を上げて、拓海の顔をちらちらと申し訳なさそうに見ていた。
拓海は短く息をついて、財布から紙幣を折って差し出した。
袖の下というほど大げさな額ではない。だが、断りにくくなるには十分だった。
「悪いが、頼む。好きに使ってくれていい」
男は一瞬ためらい、それから紙幣を見て、最後に拓海の顔を見た。
何か言いたそうだったが、結局、小さく頷いた。
「…わかりました」
拓海は「助かる」とだけ返して、その場から屋敷の縁側へ出ていった。
広間には戻れない。戻る気にもなれなかった。
出たとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた気がして取り出したが、気のせいだった。拓海は自分からメッセージアプリを開く。
《服、汚してごめん》
短く打って送る。
少しして、返信が来た。
《いま寝てる笑》
それを見た瞬間、拓海は思わず吹き出した。
たった一行なのに、瑞希らしさが全部入っている。怒っているでもなく、泣いているでもなく、先に現実を処理している。そのくせ、助けられたこともちゃんと受け取っている。
拓海はスマートフォンを握ったまま、深く息を吐いた。
月明かりを浴びながら縁側に座っていると、山のほうへ吹いていく風で松の葉がさらさらと鳴っていた。
周囲の山は真っ暗な墨絵そのものかのように、輪郭しか見えない。
夜空を雲が這っていくと、月明かりが灰色に陰っていった。
そのとき、板敷きの向こうから、足を引きずるような音がした。
繊維がこすれるような音がしたが、規則的。
だがそのひとつひとつが重い感じだった。
酒の入った人間の歩き方だ、と拓海は思った。
顔を上げると、軒の影からスポットライトのような月明かりの中に、男が現れた。
「ここにいたか」
牧野和樹だった。
質のいい濃い色のジャケットを風にはためかせていた。
額が見えるように髪を上げている。あごをだらんとひらいて、目のまわりだけが少し赤い。
足取りは崩れていないが、近づくにつれて、上等な酒の匂いがわずかに混じってきた。
和樹は拓海の少し手前で立ち止まると、暗がりの中でにらみを利かせるように目を細めた。
「お前、よくも人前であんなことしてくれたな」
開口一番、それだった。
拓海は腰を上げた。
「…すみません」
「すみません、で済むと思ってるのか」
和樹は低い声で言った。怒鳴りはしない。けれど、抑えているぶんだけ、かえって刺さった。
「あれで瑞希が、あの馬鹿な連中にどう言われるか、少しは考えたのか? ただでさえ余計なことばかり言う連中だぞ」
拓海は答えなかった。
答えたところで、言い訳になるだけだと思ったし、実際、和樹の言っていることは間違っていなかった。
和樹がさらに一歩だけ近づいてきて、拓海は気後れした。
「それで、弁償できるのか」
「きちんと、お支払いします」
そう返しながら、拓海は内心でうんざりしていた。
やっぱりこの男は嫌いだ、と昔から何度も思ってきたのと同じ種類の感情で、喉の奥がむずむずした。こっちが頭を下げていると見ると、相手の呼吸の浅くなる場所を選んで踏みにくる。そういうところがある。
「きちんと、ねえ」
和樹は鼻で笑った。
「染み抜きだけで済むと思うなよ。あれ、普段着じゃない。反物から起こして仕立てたやつだ。帯もある、襦袢もある、足袋もある。万一、色が残ったら仕立て直しだ。家の中のことだから外へ雑にも出せん…
ま、百二十万ってところか」
拓海は一瞬だけ黙った。
どう考えても盛っている。そもそも自分は、足袋と裾くらいしか濡らしていないのだ。
百二十万円。そこまで行くはずがない。
だが、ここで「そんなわけないでしょう」と返したら、それはそれでみっともない気がした。自分がやったことを、値段の真偽だけで軽く扱うような感じがして、嫌だった。
拓海は財布を取り出した。
中を見て、とりあえずで用意していた、折りたたんだ紙幣を抜いた。
「…いま、手元に五万あります。とりあえず、一部として受け取ってください」
和樹は差し出された紙幣を見た。
視線だけを落として、数秒黙って、それから薄笑いを浮かべた。
闇の中で赤らんだ顔に、碁の黒石のような瞳と、曲線を描いた白い欄干のように並んだ歯が浮かび上がっていた。
「誰が、いま払えと言った」
拓海は眉を寄せた。
和樹は手を出さない。
「そんな端金、お前自身に使え」
言い方はぞんざいだった。
「もっと見た目をマシに整えろ。ドメインを増やして、もっと新規を集めろ。そして自動で売れるようにして、もっと仕組みで回すようにしろ。
どうせ回収するなら、今みたいな半端なところからちまちま取り立てても、飛ばれちまうだろ? バカは鶏を太らす前に絞めるが、俺はきちんと太らせてからずっと卵を取り続けるんだ。優しいだろ」
和樹はふん、と鼻を鳴らして横を向いた。
その言葉に、拓海は小さく息を止めた。
馬鹿にされている。
そう受け取るのがいちばん自然だった。
実際、そういう口調でもある。
なぜこの男は、受け取って終わりにしないのか。
なぜ今、わざわざここまで来て、こんな言い方をするのか。
和樹は拓海の顔を見て、さらに薄く笑った。
「お前が一括で払うまで、逃がさず見ててやるよ。お前だって親族だから、割引いてるんだぜ」
挑発するような言い方なのに、目だけは妙に醒めていた。
酒の匂いが風に混じってわずかに流れた。
拓海は紙幣を握ったまま、しばらく動けなかった。
腹が立つ。
嫌味ったらしい。
「…わかりました」
それだけ言うと、和樹は「わかったならいい」と返して、それ以上は何も言わず、くるりと背を向けた。
歩き方は少しだけ乱れていたが、酔いに足を取られるほどではない。
再び来た方向へ戻っていく背中は、荒っぽいくせに無駄がなく、家の中の空気を当然のようにまとっていた。
やがてその姿は暗がりの向こうへ消えた。
拓海はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
手の中の五万円が、妙に熱かった。
紙幣を財布へ戻してから、もう一度、軒端の板敷きに腰を下ろした。
夜気はもう完全に冷えていて、昼間の熱を忘れた木の匂いがした。
遠くではまだ親族たちの声がぼんやり続いているが、ここまで来ると、ただ低いざわめきにしか聞こえない。
どうせそろそろ、食事も終わるだろう。
屋敷の奥から外れた高みの上に、時計塔が見えた。
黒松の群れに抱きつかれたように囲まれて、その上だけが夜空へ押し出されるように立っている。
露台は月明かりを浴びて輪郭がくっきりと浮かんでいたが、灰色っぽい石の肌は鈍く沈んでいた。
宗一郎に怒鳴られた屈辱は、まだ体のどこかに残っている。
その一方で、瑞希を少しだけでもあの食卓から逃がせたことに、妙な満足もあった。
そこへ今度は、和樹にまで値踏みされるようなことを言われた。
汚い。
やり方としては、かなり汚い。
わざと飲み物をこぼし、使用人に金まで握らせた。しかも、最後には兄にまで、今のお前はまだ雑魚とでも言われた
けれど、あの食卓にいた誰よりも、今夜の瑞希を見ていたのは自分だ、という気もした。
塔を見上げながら、拓海は膝を立てた。
あの家では、上品であることも、正しくあることも、だいたい誰かを消耗させる。だったら、自分は綺麗じゃないやり方でしか役に立てないのかもしれない。
そんなことを考えたあとで、自分は本当にろくでもないな、と苦く思う。
そしてスマホの電源を入れて、新たなドメイン名の候補を調べていった。