午前十時を少し過ぎたころ、屋敷の朝は、ようやく明るさだけを取り戻していた。
庭の芝には朝露が真珠の粒のようにきらめき、敷石の目地に溜まった水が薄い陽の光を返している。
湿った青楓の葉はまつ毛のように重たげに垂れて、白壁に映った薄い緑色を帯びた枝の影だけが、風に揺れてかすかに動いていた。
火の消えた時計台は、庭木の向こうに黒い輪郭だけを見せている。
夜の炎も、悲鳴も、鐘の音も、朝の光の中ではどこか遠くなったように見えた。
拓海と瑞希は、奥文庫の卓に向かい合っていた。
卓の上には、さきほど由緒控の隙間から落ちた紙片が広げられている。古い和紙は黄色く乾き、端が少し波打っていた。触れ方を間違えれば、指先の力だけで裂けてしまいそうだった。
そこには、墨でこう書かれていた。
『牧野家危急の折には、牧野を護りし者の在所を探るべし。時告ぐるもの、馬の眼を開かん。』
拓海は、その文面をもう一度目で追った。
まるで小学生が辞典から引いた単語を、それらしく並べているようだと思った。
「…わざとらしいな」
拓海がぼそっと呟くと、瑞希が眉を寄せた。
「わざとらしい?」
「いかにも、家に秘密がありますって書き方だろ。昔の人って、こういうのを普通に残すのか?」
「さあ。少なくとも、お父様なら絶対に残さないと思う」
「それは…宗一郎さんだったら、ないだろうな」
宗一郎がこの紙片を見つけたとしても、あの白髪の混じった眉をひそめて、丸めて捨てるかもしれない。あるいは、くだらん、の一言で終わらせる。そんな想像が容易にできて、拓海は少しだけ口元を緩めた。
瑞希は笑わなかった。
疲れが顔に出ていた。いつもなら、こちらの冗談に一拍遅れてでも皮肉を返してくるのに、今は紙片に視線を落としたまま、唇を固く結んでいる。
黒髪はきれいに整えられていたが、目の下にはうっすらと陰が横たわっていた。
「時告ぐるもの、って、何だと思う?」
「時計か鐘か、暦か。まあ、この家でそういう言い方をするなら、普通は…」
拓海は窓辺に顔を向けて、その先の言葉を止めた。
時計台、とは言わなかった。
言えば、その言葉だけで、あの夜の炎が戻ってくる気がした。
瑞希も同じことを考えたのか、紙片の上に置いた指を少しだけ引いた。
「まだ行けないよね」
「無理だろ。警察が調べてる最中だし、近づいただけで止められるって」
「だよね」
瑞希の声は落ちた。
奥文庫の小さな窓から差す光は、卓の半分だけを白く照らしている。
光の届かない棚の奥には、和綴じの冊子や帳簿が暗く沈み、背表紙の墨文字だけがこちらを見ているようだった。
紙と防虫香の匂いは、さっきよりも濃く感じる。
拓海は紙片を畳まずに、卓の上へ置いたまま考えた。
裕治は山林資産整理帳を調べていた。
その中に売却記録がある。
かなりの金が動いたはずなのに、どこかに使われた形跡がない。
そして、この紙片。
単純に二つをつなげると、動いた金を密かにどこかに隠したのか、としか思えなかった。
「裕治おじさん、これも知ってたのかな」
「どうだろ? ひらいた感じは…あまりないけど」
確かに、紙片は乾いてはいるが、裂けた部分はほとんどない。
少なくとも直近でひらかれたわけではないのだろう。
「写真、撮っておくか」
拓海はスマートフォンを取り出して、横向きに構えた。
画面の右下に、前日に撮影した、二人だけの秘密の鍾乳洞内の隠れ家が映っている。
「一応言っておくけど、ブログに載せるんじゃないぞ」
瑞希がすぐに首を振った。
「うん、わかってる。待って。照明、こっちのほうがいい」
「え?」
「影が入ってるよ」
そう言って瑞希は卓の横へ回り、小さな窓から入る光の角度を見た。
まぶたが重たそうにひらき、少し深く呼吸して胸が上下していた。
瑞希は紙片の端を指で押さえようとして、ふと動きを止めた。
「破けると困るから、押さえないほうがいいか」
拓海は一回、撮影した。
撮影した画像を見てみると、確かに文字は読めるが、少し紙の曲がった部分がある。
拓海は眩しそうに目をしばたたかせて、片手で頭をかいた。
「やっぱ、押さえててくれ。これはよくないな。曲がったところで、きれいに見えないんだ」
「はいはい、プロの技術は違いますね」
「私用だって。じゃあ、俺が――」
拓海が手を伸ばした、そのときだった。
瑞希が一歩下がろうとして、卓の脚に足を引っかけた。
「きゃ」
短い声だった。
拓海は反射的に腕を伸ばした。
瑞希の身体が斜めに傾き、そのまま胸元へ倒れ込んでくる。肩を抱き留めるつもりだったが、思ったより勢いがあって、手は背中のあたりへ回ってしまった。
乾いた紙と防虫香の匂いの中に、瑞希の髪の匂いが混じった。
「ごめん」
瑞希が小さく言った。
二人の顔は、近かった。
櫛一本の長さよりも近かった。
拓海は、すぐに離れなければならないと思った。
ここは屋敷の中で、奥文庫で、事件の翌朝で、外には警察も親族も使用人もいる。
自分たちは、こんなところでいつもの距離に戻っていいわけがない。
極めてまっとうな考えだった。
だが、拓海の腕は動かなかった。
瑞希も、離れようとしなかった。
窓外の木々の葉が風でゆらゆらと動き、二人を覆うようにまだらな影がさした。
「拓海」
瑞希のかすれた声に、拓海はほとんど無意識に、顔を近づけていた。
瑞希のまつげが、ほんのわずかに震えて、目を閉じた。
だが、二人の顔が触れそうな直前、入口のほうで、畳を踏む足音がした。
二人は弾かれたように同時に振り向いた。
奥文庫の長方形の入口に、光を背負って小さな男の子が立っていた。
親戚の子だった。
四歳になると聞いている。両親と祖父母と一緒に来たらしい。
両手には、木でできた馬のおもちゃを抱えていた。
たぶん、広間に置いてあった古い玩具を誰かから渡されたのだろう。
ところどころ色が黒ずんで、角が丸くなっていた。
「拓海にーちゃん」
男の子は、まんまるな目で、あどけない様子で拓海と瑞希を見ていた。
「瑞希ねーちゃんと…ちゅーしたの?」
その瞬間、拓海は意識が遠のく感じがあった。
瑞希は拓海の腕の中から、ほとんど跳ねるように離れた。
だが、急に離れすぎてまた足元を危うくしてよろけて、今度は自分で卓の端をつかんで、うつむいていた。
「違います」
顔を上げて即答した。
牧野家の娘として、人当たりのいい表情で、まるで教師が生徒に正解だけを告げるような声だった。
しかし、頬と耳ははっきり赤らんでいた。
「いまのは、拓海さんが私を支えてくださっただけです」
男の子は、その言葉を完全に理解しがたいものとして受け取ったのか、小首をかしげた。
「でも、おかお、くっつきそうだったよ」
「それは…いえ、そう見えただけで、距離の問題です。何も間違っていません。お話してただけですよ」
「おはなし?」
男の子は木馬と一緒に顔をかたむけた。
「ええ、そうです。今日の晩ごはん、何かなーって」
牧野瑞希は、非常に上品な笑みのまま、拓海を見た。
すぐにでも救援要請しているかのような眼差しだった。
しかし、拓海はまだ瀕死状態だった。
いま何かを言えば、純粋な子どもに爆弾を投げつけられるという、余計に墓穴を掘る自信しかなかった。
男の子は目をぱっちりひらいて、一歩近づく。
「えー、そうなの?」
「うん、そうなの」
「でも、パパとママがなかよくしてるときみたいだったよ」
沈黙が走った。
そよ風で紙束が動く音すら聞こえて、陽光にほこりのひとつひとつがグラディエーション状に光る色すら、すべて記述できそうなほどのものだった。
拓海は口を開きかけて、何も出てこなかった。
瑞希も、上品な笑みのまま、固まっている。
「大人の人は、みんな同じようにお話するんですよ」
「そうなの?」
「そうですよ」
「でも、パパが、弟か妹がほしいってママに言ったとき、瑞希ねーちゃんと同じ顔してたけど」
たっぷり五秒間、二人の身動きが止まった。
時計台の打鐘の一回と、きっかり同じ時間だった。
瑞希が引きつるように息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「してません。ね…?」
瑞希が即答すると、拓海を見た。
「うん、してない。何も、してない」
拓海は何度も高速で頭を上下させながら、言葉を重ねた。
その反応時間は、おそらくストップウォッチでも測れないほどの短い時間だっただろう。
そして瑞希は、覚悟を決めたように目を伏せると、男の子の前へしゃがんだ。
「ねえ」
「なあに」
「今度、お姉ちゃんとお買い物に行きましょうか」
「おかいもの?」
「ええ。好きなおもちゃを、ひとつ選んでいいですよ」
拓海は思った。
最低な買収だよ、と。
こんな純粋な男の子を金で釣るとは、ご令嬢にあるまじき邪悪なる行為そのものだと。
悪徳政治家ですら、真っ青になるほどの悪質な賄賂そのものだと。
男の子の目が一瞬だけきらっと輝いた。
しかし次の瞬間、眉を寄せた。
「なんで?」
それは、あまりにも鋭い返しだった。
瑞希の笑顔が固まった。
「え?」
「なんで、おもちゃ買ってくれるの?」
「それは…せっかくお話した記念で」
「ぼく、なんかした?」
「していません」
「じゃあ、なんで?」
瑞希が完全に詰まった。
拓海は、妙なものを見たと思った。
牧野瑞希が、四歳児の素朴な質問で追い詰められている。
親族の老人にも、和樹にも、時には宗一郎にさえ整った顔で返す女が、木馬を抱えた男の子のあまりにも明晰かつ論理的な返しに、完全敗北を喫してしまったのだ。
拓海は思った。
このちびっこに対しては、ニコマコス論理学やユークリッド幾何学のすべてを誤解なく論ぜられるほどの知識を身に着けた論客ですら、答えに窮するに違いない。
「でも…ここで遊んでたら、パパとママに、怒られるんじゃないですか?」
「うん…でも、見たかったから」
「だったら、ここに来たこと、内緒にしておかないとダメですよ。大人しか入っちゃだめなところですから」
男の子は、小首をかしげた。
「パパに?」
「パパにも、ママにも、です」
「くろすけには?」
「…くろすけって?」
「くろすけはテリアだよ」
「えっと、おうちのくろすけちゃんにも内緒で…おねーちゃんと、拓海おにーちゃんとのお約束ですよ」
拓海は思わず吹き出しそうになって、必死に口を押さえていた。
何か言うべきではないが、この戦いを見ているのも、なかなか楽しいものがある。
「うん、やくそくする!」
「いい子ですね」
「やくそくしたから! 瑞希ねーちゃんにほめられたって、ママにいってくる!」
「いや、それも言わないで」
男の子は木馬を胸に抱えたまま、廊下のほうへ走り出した。
すると、「あっ、お前、そこにいたのか!」と男の声がした。
どたどたと足音が近づいてくる。
拓海と瑞希は、入口から見えないところに下がった。
「パパ!」
「お前、勝手にどこかに行くなって、言っただろ! パパがママに怒られるんだぞ。またこれでママにプレゼントを…いや、言うなよ、これは。とにかく、お前がママに怒られるんだ。ほら、行くぞ!」
男の子は、まるで簀巻きのように父親の小脇に抱えられると、そのまま連行されてしまった。
やがて足音が小さくなり、すぐに屋敷のざわめきへ溶けていく。
奥文庫に、恐ろしく長い沈黙が残った。
「…拓海」
「うん」
「今の、まずいよね」
「絶望だよ…」
「どうしよう」
「俺に聞くな…くろすけに言うだけだったら、いいんだけど」
瑞希は額に手を当てた。
目陰に、閉じた目が憂いを帯びたように包まれていた。
「私、何してるんだろう」
「時代劇の越後屋も腰を抜かすほどの買収テクをやってたよ。水戸黄門に出る才能があるんじゃないかな」
「言わないで」
「たぶん、企業研修で経営者たちが、お前のセリフをお聞かせ願いたいって殺到するよ」
「本当に言わないで」
瑞希は赤くなった顔を隠すようにうつむいた。
その姿は、さっきまでの怯えとは違うものだった。
拓海は、喉仏の下を所在なげに指で挟んで、深く息を吐いた。
ひどい朝だ。
鐘が鳴り、怪談が現実になったように人が燃えて、古い紙片が出てきて、そのうえ四歳児にほとんどキス寸前まで見られた。
それでも、瑞希が少しだけ生き返ったように見えたので、悪くはないのかもしれなかった。
拓海は紙片を折りたたんで、由緒控の間に薄紙ごと戻した。
そして二人は奥文庫を出た。
太い柱の陰が濃くなり、板張りの床には楕円形に似た庭の葉影が揺れている。
遠くの広間のほうから、人の声が少し大きくなって聞こえた。
足取りの音の間隔は短かった。
「何かあったのかな」
瑞希が呟いた。
大広間の近くまで戻ると、警察官が二人立っていた。その向こうに、人だかりができている。
森拓己がいた。
昨夜遅くに姿を見せたときと同じように、整った顔に薄い笑みを貼りつけている。髪は乱れておらず、顔色も明るい。ジャケットもきちんとしていたが、なんとなく夜の街にいるような雰囲気があった。
事件翌朝の屋敷で、その身なりの整い方だけが妙に浮いていた。
彼の前には若い刑事が立っており、その質問に低くも大きな声で答えていた。
「ですから、忘れ物があったんですよ。仕事用のSSDで。あれ、取引先とのメッセージも入ってるし、なくしたら大事になると思って」
「それで、戻ってきたと?」
「そう。そしたら、あの雰囲気のある門の前に、パトカーがわんさか止まってるでしょ。で、何事かと思って聞いたら、止まってくれって言われて今に至るってわけなんでさ。こちらとの打ち合わせも入ってますから、さっさと確認して返してくださいよ」
森の声は軽かった。
親族たちは少し離れたところで見ていた。一族とは違った雰囲気に、物珍しそうとも、毛嫌いとも混じった目をしている。
誰も森に近づこうとはしない。使用人たちも廊下の端で足を止め、すぐに目を伏せて通り過ぎていく。
森はふと、拓海たちに気づいて、警察官の肩越しになるように体を斜めにかたむけた。
「おはよう。って言うには、ちょっと遅いか」
瑞希は小さく会釈しただけだった。拓海も軽く頭を下げた。
森の視線が、一瞬だけ瑞希の顔に止まる。それから拓海へ流れた。
何かを見透かすというほどではないが、相手の心理をスキャンでもするような値踏みする感じだった。
「川端くんだっけ。ちょっと助けてよ、俺と同じ名前なんだからさ。この人に言ってくれよ。俺は和樹さんと話したいだけなんだけど」
「警察官ですよ? ちょっとも何もないでしょう。みんな、ずっと緊張してて疲れてますから」
「こっちもこっちで困るんだ。ま、でもあんたもずっとお嬢さんについてばかりで大変だね。ずっとここにいるんだろ、昨日から」
「ええ、まあ」
「こういう家は、事件がなくても疲れそうだな」
森は軽く笑ったが、誰も笑わなかった。
若い刑事が咳払いをして、森に視線を戻させた。森は肩をすくめ、また質問に答え始めた。
ある程度距離をおいて、二人だけになったところで、瑞希が小さく呟いた。
「苦手」
「森さんが?」
「うん」
「わかるよ。なんか、見られてる気がするよな」
瑞希はそこで、ふっと足元を見た。
疲労がまた戻ってきたようだった。さっき奥文庫で顔を赤くしていた瑞希とは違う。
すれ違う使用人の目線、親族の目線のせいか、あまり寝ていないのに背筋を伸ばしているままだったからだろう。
拓海は、奥文庫に連れて行ったのはよくなかったな、と心の中で後悔した。
「瑞希、一旦寝ろ」
拓海が言うと、瑞希は顔だけ拓海を見て、嫌そうに目を細めた。
「今?」
「今すぐだ。顔色、悪いぞ」
「あの紙のこと、まだ話してないじゃない」
「それは後でいいから。まずは休め」
「時計台…じゃなくて、時告ぐるもののこと」
「言い直し方が露骨だって」
「うるさい」
そう言いつつ、瑞希は壁に手をついた。体力は限界なのだろう。
「あとで目覚まし、入れて。巨大な蚊みたいにはしなくていいけど…」
「わざわざ鏡の国のアリスを入れなくていいって。わかった。じゃ、四時に」
「本当に。置いていかないでよ」
「行かないよ。まだあれは、どういうことなのか、気になるし」
「嘘ついたら、怒る」
「今でも怒ってるだろ」
「今のは…ううん、違う」
瑞希は小さく息を吐いてから、廊下の先へ向かった。
途中で年配の女性使用人が近づき、瑞希に何かを囁いた。
瑞希は頷き、そのまま自室のある棟のほうへ消えていった。
拓海は一人になった。
広間のほうでは、まだ森への質問が続いている。
庭の光は明るいのに、屋敷の奥にはどこか灰色の膜が張っているようだった。
庭園の奥では、枝がぼうぼうに伸びた木々の群れが固まっている。長さがまちまちな枝葉が水気の少ない夏の風を浴びて、剪定を要求するように揺れていた。
誰も彼も、この様子では今日の祭りには、出られないだろう。
そのとき、低い読経のような声が聞こえた。
声のしたほうを見ると、宗一郎と住職が奥座敷の近くで話していた。
住職は痩せた老人で、薄い法衣の袖から出た手は骨ばっている。目は細く、寝ているのか起きているのかわからないような顔をしていた。
宗一郎は険しい表情で庭を見ていた。
目線の先では、片面を照らされた石灯籠が、地面に卒塔婆のような斜めの影を投げかけている。
「この状況で、祭りに顔を出すことはできん」
「それは、そうでございましょうな」
住職は静かに答えた。
「主賓も何もあったものではない。ここであんなことがあった以上、牧野家が表に立つわけにはいかん。祭りそのものも、延期を考えねばならんだろう」
「それでは、氏子の方々は、動揺されましょうな」
「動揺だけならよい。くだらぬ噂が広まる」
宗一郎の声が、少し低くなった。
「また、妾の怪談などと、心底くだらぬことをな」
怪談という言葉が出たせいか、近くにいた親族の一人が、聞こえないふりをした。使用人の女が盆を持ったまま足を止めかけ、すぐに姿勢を正して通り過ぎる。
住職は、宗一郎の横顔を見ていた。
その目は、怪談を恐れる者を見る目ではなかった。宗一郎の言葉を否定する目でもない。冷めた目だった。
「人は、名前のないものに怯えますからな」
「名前ならある。馬鹿げた作り話だ」
宗一郎は吐き捨てた。
「妾だの、火だの、燭台だの。古い家には、どうしてもそういうものがまとわりつく。昔の死者を、いまも生きておるかのように、雰囲気だけでごたつきおって。だが、この場では死人が出ている。怪談などと言って騒ぐ余地はないのだ」
「ええ、ですが、火のないところには煙は立たぬと言われます。怪談がそう伝わるようになったからには、そう言われる別の理由があったのかもしれませぬな。その理由が知られぬようになっただけで」
住職は穏やかに頷いた。
「ですが、死人が出ておることには、何も変わりありません」
その一言は、妙に冷たかった。
宗一郎は気づいた様子もなく、眉間に深い皺を刻んでいた。住職はそれ以上何も言わない。だが拓海には、住職が怪談をくだらないものとして切り捨てているわけではないように見えた。
むしろ、怪談を知らずに笑う者たちを、少し遠くから見ているようだった。
拓海がその場を離れようとしたとき、廊下の向こうから和樹が歩いてきた。
顔色はまだ悪い。だが、朝よりは目に力が戻っていた。戻ったぶんだけ、機嫌の悪さもはっきりしている。
その後ろから数メートル離れた位置には、うつむき加減でスマホに目を落としている達弥がゆっくりと歩いてやってきていた。
拓海は、和樹が近づいてきたことで、緊張して胃の下が熱くなった。
「川端」
和樹が呼ぶと、整えられたあごひげが奇妙に上下した。
少し前までの丁寧な『川端くん』はどこかへ消滅したらしい。
「はい」
「瑞希は」
和樹は周囲と、次いで後ろの達弥を見て、やや声を落とした。
「どこに行った?」
「部屋で休ませました。昨日から眠れてなかったようで、きつそうでしたから」
「なんだ、お前が休ませたのか」
「そうで――いえ、瑞希さん自身でお部屋に行かれましたよ。限界だって表情でした」
和樹の眉がわずかに動き、目が細まると、鼻翼がわずかに膨らんで、にやっとした。
「限界、ね。まったく、昔からよくわかるもんだな」
「どういう意味です?」
「すまん、言い間違いだ。ただ、川端、そしたらラッキーだったな。もしお前が、まだあいつに案内させているのを見かけた瞬間、つかみかかって、庭に放り投げてやるつもりだったからな。おい、そんな顔するなよ」
拓海はいつの間にか、表情を変えていたらしい。
あまりの不躾な言葉に苛立っていたので、その感情が顔に出ていたようだ。
そして達弥が追いついた。スマートフォンの画面を消して、胸ポケットにしまった。
二人のやり取りが聞こえていたのか、拓海の顔を見て、柔らかい声を出した。
「瑞希はどうしたの? ああ、眠ったんだ。いろいろあって、疲れてただろうから、ちょうどよかったんじゃないかな」
「お前は、いつでも誰にでも優しいな。そのご丁寧な振る舞いも、カナダ留学の成果ってやつか?」
和樹の言葉に、達弥は苦笑した。
「留学とか関係ないって。それに、別に優しいわけじゃないよ。今倒れられたら、余計に困るだけだ」
「おい、お前、兄貴の前で、妹のことをそんなふうに言うのか? 専務さんは、今度はずいぶんとお優しくない言葉を吐くもんだな」
「それだと、社長のきみこそ、そんな態度をしていいのかい? 実務的と言ってほしい。こっちも、忙しいんだ」
拓海は、二人の会話を聞きながら、なんとなく居心地の悪さを感じた。
和樹と達弥は従兄弟同士で、互いの距離感は近い。だが、そこには親しさだけではないようなものも見えた。
和樹が拓海を見た。
「森が戻ってるな」
「ええ。入口のほうにいまして、警察と話してました」
「あいつ、妙に落ち着いてやがる」
和樹の声には露骨な嫌悪があった。
達弥が視線だけで森のいるほうを見た。
「仕事柄じゃないかな。人前に立つ仕事をしていると、表情を作るのは慣れるだろうから」
「いや、あいつ、フリーの何でも屋だろ。どこかの誰かさんと違って、何でも屋を全面的に信用する理由にはならん。専門家ではないんだからな」
「だからって、疑う理由にもならない。彼がクライアントの要求をこなせるのは、君だって見ただろ? 父さんだって、それを知ってたから何度も依頼してたんだ」
達弥の声は静かだった。
和樹は鼻で笑った。
「お前、朝から理由、理由って、そればっかりだな。なんだ、次は順番って言うのかよ」
「必要なことだからね」
「そんなに順番が好きなら、あのバカどものツラがそろってる親族名簿でも並べ替えてろ。配当株の所有数で並べたら、目を皿のようにしてその順番を見て、さぞかし喜ぶだろうぜ」
「それは和樹のほうが得意だろ。車のナンバーまで覚えるくらいだから」
和樹は一瞬だけ眉を上げた。
「数字は目につくんだよ。お前の車だって、何度も見りゃ覚える。実際、今回はナンバープレートの数字、変わってたろ」
「確かにそうだけど、それってどうでもいいだろ。そこまで行くと、個人情報の侵害だろ」
「法的な問題はなしだからな。これくらいの言われようでこじんまりとせずに、もっと大物らしい態度を取れよ」
「和樹とは違うんだよ。こっちも、父さんの返信が全然来なくて、気が気じゃないんだ」
達弥はだんだんと苛立ってきたのか、言葉に棘が混じってきた。
「そこまで言うなら、君も自分の会社の数字を見たほうがいいんじゃないか。いろいろ聞かされてるんだよ、ぼくだって。介入する気はないけど、ほかの親戚たちは口出ししかねないだろ」
和樹は、食いしばった歯を見せるように、唇を上げた。握りしめた手の甲に、太く血管が盛り上がった。
「おい、達弥、俺とあいつらと一緒にするなよ…配当株で潤って、管理は人任せ。そのくせに、負担軽減だ共同管理だときれいごとを並べて、最後は権利を寄越せだ。あんなバカどもと、俺は違う。あいつらは、管理をわかろうともしてないんだ。権利を寄越せばかりのシュプレヒコールを上げてばかりの、太い実家の皮をかぶった欲深どもと違って、俺は自力で立ち上げてるんだぜ」
「わかってるよ。一緒じゃないって。だから、これで話は終わりだ」
達弥が拓海へ顔を向けた。
「拓海くんは、父さんから頼まれた資料の件、警察には話した?」
「まだです。聞かれたら話します」
「そうか…でも、さすがに自分から言ったほうがいいかもしれない。変に隠していると思われると、面倒になる」
「そうします」
「父さんは、仕事に関係ないところでも急に資料を集めることがあった。動くまで、何も言わないし、思いついたら止まらない人だから」
達弥の声は淡々としていた。
和樹が横から言った。
「叔父さんが、ちょくちょく来てたって話か」
拓海は目を向けた。
「知ってるんですか」
「直接は知らん。さっき、親族の誰かが言ってた。使用人どもが、しゃべったんだろう」
「土地の話ですか?」
「たぶんな。うちの親族は、口を開けば土地だ。売るな、貸すな、開発するな、いや活用しろ。山だの、境界だの、権利だの。死人が出ても、たぶん明日にはその話をしてる。頭がおかしくなりそうだぜ、まったく。
親父には、共同管理ってきれいなおべんちゃらばかりで近づいてるが、オブラートの下は、あれもこれも欲しがる子どもと何も変わらん。
親族って上品な称号があるだけ、藤井のやつよりもよっぽどタチが悪いってこったな。川端、マヌケ頭のお前のほうが数万倍マシだ」
和樹の口調は皮肉だったが、目は笑っていなかった。
達弥が小さく息を吐いた。
「でも、父さんが本当に何を調べていたのかは、まだわからない。会社のことか、土地のことか、宗一郎伯父さんとの関係とか、家の記録のことか」
「おい…変なことを言うなよ。親父はきちんと管理してる。それに、裕治さんの会社のことなら、お前が一番知ってるんじゃないのか」
和樹が言うと、達弥は首を横に振った。
「実務だけだよ。父さんはいくつも会社を持ってるし、ぼくは役員としていくつかの実務を見ていただけだ。毎日顔を合わせて、全部報告を受けていたわけじゃない」
「下請けみたいな距離感だな。全部お前がやればいいのに」
「君と違って、トップじゃないからね。現実的じゃないよ。動いてくれる人がいないと。そう言われても…事実だけどね」
達弥は少しだけ笑った。疲れた笑みだった。
「父さんはいつも、土台はがっちり握ったまま、必要な指示だけを急に投げてくるんだ。ぼくはそれを処理する。そういう関係だよ」
「処理、ね。まあ、定形作業になるから、疲れるかもしれんな」
和樹がその言葉を繰り返した。達弥はすぐに話題を変えた。
「森さんの撮影の件は、和樹が頼んだんだよね」
「ああ」
「どんな撮影プランにするつもりだったの?」
「夜の時計台を背景に、旧家の祭りと観光資源を絡めた短い映像を撮るつもりだった。時計台の露台から地上を写して、風景をミニチュアみたいに見立てて、ぺらぺら上品なお言葉をあとから入れるってやつだ。
藤井の野郎との開発案とは別で、いまの資産を有効活用する予定さ。
外面は、なかなか刺激的なプランだったんだぜ?
露台からロープをつけて降りるところの動画も撮るつもりだったし。SNSに流せば、数年は無料のいい広告になっただろう」
和樹は苛立ったように髪をかき上げて、ガシガシとかいた。
「だが、もう流れる。あんなことがあったんだ…また呪いだとか、変な噂が流されちまう。撮れるわけがない」
「森さんは納得してる?」
「してるかどうかは知らん。だが、契約分は払う。俺の気がすまん」
達弥が頷いた。
「そのほうがいい」
「お前に言われなくてもわかってる」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
広間のほうで、誰かが小さく笑う声がした。笑いではない。緊張に耐えかねた息の漏れのようなものだった。すぐに別の誰かが咳払いをして、その音を消した。
三人が広間に入ったとき、時計は十一時半を少し回っていた。
そのころになると、屋敷の光は朝の白さから昼前の硬い明るさに変わり始めていた。庭石の影が短くなり、光の中に縁側が浮かび上がって、その木目がはっきり見える。だが屋敷の中の空気は、むしろ重くなっていた。
警察官が一人、広間に入ってきた。
続いて阿部警部が姿を見せた。眉間に険しくしわが寄って、口元を引き結んでいた。
その顔を見た瞬間、広間にいた者たちの声が落ちた。宗一郎も住職との話をやめ、ゆっくりと阿部へ向き直る。
阿部警部は、手帳を閉じたまま持っていた。低い声で言う。
「牧野宗一郎さん。少し、よろしいですかな」
宗一郎はすぐには答えなかった。
「ここで構わん。皆、関係者だ」
阿部警部は一度だけ、広間の人々を見回した。
「では、必要な範囲だけお伝えします。牧野裕治さんについてです」
広間の空気が変わった。
和樹が身を固くした。達弥は表情を動かさなかったが、右手を押さえる左手に力が入ったように見えた。
阿部警部は続けた。
「裕治さんは、会社側には一週間ほど私用で休むと伝えていたようです。ところが、ご家族には仕事が詰まっているように見せていた。ここに、食い違いがあります」
「休む?」
宗一郎の声が低く落ちた。
「裕治は、仕事だと…」
「奥様にも、達弥さんにも、戻りが不規則になるという趣旨の連絡が残っております。しかし、経営されております各会社には、さまざまな理由をつけられて長期休暇として処理されていました」
親族や使用人たちが、ざわつき出した。
達弥が顔を上げた。
「私は、父から通常業務の確認を任されていました。急ぎの案件はこちらで見るように、と…だから、てっきり、どこかの取引先に詰めているものだと。父は、どうしているんですか?」
阿部警部は達弥を見ると、質問を無視して逆に問いかけた。
「仕事だと思っていた?」
「はい。父は、必要なことだけ言って動く人でしたから。今日も、返信が来ないのはいつもと同じことだろうと…」
達弥の声は、誰にでもはっきり聞こえたが、終わりに近づくにつれて、だんだんと小さくなっていく。ざわざわとした声が上がり始めた。
阿部警部は手帳を開いた。
「続けましょう。裕治さんは事件の五日前、一週間の予定でレンタカーを借りています。その車が、山中で発見されました」
親族の誰かが息を呑んだ。
「山中で…?」
宗一郎が身を乗り出した。
「どこの山だ」
阿部警部はページをひとつ前に戻して、少し間を置いた。
「ここから七キロほど離れた、県所有の山の山道です。すでに封鎖された道の奥に、停められていました。車内には、寝袋、ランタン、数日分の食料、財布、衣類、地図が残されておりました。また、仕事用のスマートフォン、個人所有のスマートフォンの二つがありまして、アプリを使ってどちらも短文のメッセージ予約がされております。所持品から判断しますと、長く山に滞在する準備をしていたように見えます」
広間のざわめきが一気に広がった。
「裕治さんが、山に?」
「どうして」
「仕事じゃなかったのか」
「じゃあ、あの遺体は…」
「しかし、なぜ七キロのところに…」
その言葉の先を、誰も言い切らなかった。
阿部警部は声を低く保ったまま、続けた。
「現在、昨夜発見されたご遺体については、歯型その他で身元の照合を進めております。断定はまだできません」
断定はまだできない。
それでも、広間の中で、その名前はもう形を持ち始めていた。
宗一郎は動かなかった。
庭から差し込む昼前の光が、宗一郎の横顔を白く照らしている。
白髪の混じったこめかみの毛が浮かび上がって、頬の線が石のように硬い。深い皺の間に、何かが急速に沈んでいるように、くっきりと黒い線が見えていた。
拓海は、奥文庫で見つけた紙片の文章を頭に描いていた。
牧野家危急の折には。
牧野を護りし者の在所を探るべし。
時告ぐるもの、馬の眼を開かん。
そして昨夜、時計台の下で焼かれたあの死体の名前は、本当に裕治そのものなのだろうか。
そして裕治は、何を見つけて、山に入ってまで、何を探していたのか。
廊下の柱時計の針が正午をさすと、重厚で大きな音が屋敷の中に鳴り響いていった。