第二章:面倒なもの

玄関から少し離れた控えの間で時間をつぶしていると、屋敷の中のざわめきがじわじわと濃くなっていった。

廊下を行き来する足音がぱたぱたと聞こえたかと思うと、障子の下のほうのすりガラスに使用人たちの黒い服の裾が次々によぎっていくのが見える。玄関先で名を告げる声がしたかと思うと、どこかの襖が開いて、また閉まる音。
祭りの前夜というより、何か面倒な会合でも始まる前のような空気だった。

拓海はスマートフォンの画面を見下ろしたまま、さっき打ち込んだ引っ越し先の候補地を片っ端からブックマークしてからカバーを閉じた。一瞬だけ、画面の淡い光が目に入って、暗くなった。

状況に流されるままでは、流されるままで終わる。
だけど、本気で行動するにはあまりにも重すぎる。

そんなことは、自分でもわかっていた。

そして襖の向こうで、「達弥さまがお着きです」という声がして、拓海は外に出た。

廊下の隅の小さなテーブルには花瓶が置かれて、そのそばに祭礼に使う紙飾りが束ねられていた。
七夕の短冊に細く長く伸ばしたような白い和紙で、端のほうに文鎮が置かれて押さえてある。
大勢が往来している振動のせいか、その端が風もないのにさらさらと擦れていた。

少しして、廊下の向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。

向こうが気づいたらしく、「久しぶり、拓海くん」と人好きのする笑みを浮かべて声をかけてきた。額に汗がにじんでおり、ハンカチで拭っていた。
拓海も軽く頭を下げて「達弥さん、こちらこそ」と応じた。

牧野達弥は、背は高すぎず低すぎず、着ているものもきらびやかなものでもないし、派手ではない。けれど全体のまとまり方に、無理なく育ちのよさがにじんでいた。
髪もきちんと整えられ、無駄な動きもなく、背筋を伸ばしてゆったりと歩いてくる。自然と廊下の片側に寄って、使用人たちの作業の邪魔にならないように予め避けている。

いかにも名家の親族という感じではあるのだが、宗一郎のような圧はない。誰とでもうまくやっていける感じの雰囲気があった。
たしか自分と同じくらいの年齢で、親の会社の専務をやっている。

拓海は、恵まれていると態度も普通とは違う。
自分は普通の家庭で育ったから同じようになれないが、別の方向でうまくやっていかないとダメだなと、内心で感じていた。

「いや、なんか暑いね。そうだ、前に会ったの、いつだったかな。二年くらい前?」

「そうですね。たしか、元旦のときだったかと」

「懐かしいな。いま、何をやってるの? …自営? ネットの? そうなんだ、頑張ってね。ご両親は」

「旅行中でして。達弥さんによろしくと言ってましたよ」

「そうなんだ、ありがとう。宗一郎さん、どこかな。先にご挨拶をしておきたいんだけど」

拓海は近くにいた使用人を呼んだ。
達弥は使用人に宗一郎の場所を聞くと、挨拶に向かった。しばらくして戻ってくると、少し表情が堅くなっていた。

「そう言えば、瑞希はどうしてる? というか、和樹くんはどこかい? 話すことがあるんだけど」

達弥は、瑞希との関係についても、宗一郎のような露骨な線引きもしない。ただ、こちらをいないものとして扱うこともなく、それなりに礼を尽くしてくる。

その距離感が、かえって拓海には少しやりづらかった。

「瑞希…瑞希さんはたぶん、お着替え中じゃないんですかね。和樹さんはまだ、俺は見てません。ところで、裕治さんは来てないんですか?」

「父は、あとから来るって」

達弥は軽く肩をすくめた。

「仕事が長引いてるらしくて。でも、本当に間に合うのかな。例によって、ぎりぎりまで取引先と電話ばっかり。社長も楽じゃないね。和樹くんほどではないだろうけど」

拓海は裕治おじさんの姿を思い出した。

牧野裕治は、宗一郎の弟。兄に似た顔で、なかなか背が高い。広い肩幅に、少し腹回りが出た体格。
会社をいくつも経営しているが気さくな性格で、駆け出しの頃には仕事を流してもらって、何度助けられたものか。
そして子どもの頃は、一緒にキャッチボールをしてもらったこともあった。
あのときは、仕事の忙しい中でも遠い親戚の自分なんかとも遊んでくれていたんだなと、今更ながら気づいた。

ただ、最近は何かと兄の宗一郎と土地の話で衝突しているらしいと、小耳には挟んでいた。

「裕治さんも来るんですね」

「年に一回の顔見せみたいなものだからね。来るには来るけど、祭り目当てというより、知ってるかもしれないけど…別件の話が本命かな」

そう言って達弥は、視線だけを奥のほうへ流した。

何気ない口調のくせに、その別件が軽くないものであることだけは伝わる。

そこへ、先ほどの森拓己が廊下の曲がり角から現れた。
肩で風を切るように、悠然としていた。

客間へ通されたはずだが、もう家の中をかなり自由に歩いているらしい。
古い家屋の内装が物珍しいのか、ふすまを見たり、欄間の馬を見上げたりしている。

森は達弥を見ると、ぴくっと片眉を上げて、親しげに片手を上げた。
それに応じる形で、森が左手を上げると、メタリックな腕時計がきらっと光った。

「やっと来たか。先に待たせてもらってたぜ」

「悪い。ちょっと道路が混んでて」

達弥は口元の緊張を緩めて、自然な声音で返した。
拓海に向けるのと同じ程度に柔らかく、森にだけ特別打ち解けてもいない。
だが森のほうは、口笛でも吹くかのように、最初からずっとこの家の空気に馴染むことを当然のように受け入れている表情だった。

「2人は知り合いなんですか?」

ああ、と森が受け取った。

「もともともっと前から仕事で知り合ってて。このあいだも撮影に1本協力したんだけど、使わなかったんだよ。な?」

達弥の表情が一瞬固まると、森の顔をじっと見て、その唇の形がじわじわと苦笑するように変わった。

「言うなよ、それ。稟議の結果だから、仕方ないだろ」

「ま、俺の失望もちょっとだけわかってほしかっただけさ。あんたも」

森は拓海を見て、面白そうに目を細めた。

「運転手じゃなくて、こういう仕事に興味あるの?」

さすがに内心でむっとしたが、拓海は表情には出さずに「フリーで広告代行や企業のSEO効果の改善依頼を請け負っています」と答えた。

「へー、そうなんだ。でも、うまくやっていけてる感じか? 高めで受けないと厳しいだろ? 10万くらい?」

「それ、この場で言うべきなんですか?」

「フリーでやってんだろ? だったら、アピールできるもの、あるだろ? この人にも」

森は達弥を見る。
達弥は森を見たあと、困ったような目で拓海に視線を向けていた。

「実力を出せるんじゃないか?」

「…地元のほうで、各案件単価10万円の依頼を3つと、個人ホームページ経由でとある企業から、単月あたり40万円の契約を3カ月、請け負っています。とはいえ、ずっと続くものではないので、たまたまだと考えていますけど」

森がちょっと目をひらいて、また閉じた。

「おお、あんた、なかなかすごいじゃん。ほら、専務さんはどう見るかい?」

達弥は腕組みをして、「すごいね、ほんとに」と答えた。

「やべぇな、この人。フツーに能力高いだろ。それはそうとして、そういえば、藤井さん、来てる?」

森が聞く。

「さっき見たよ。宗一郎伯父さんと話してた。なんで?」

「なんか、わざわざ当主さまを捕まえて話し込んでたからさ。あの人、そんなに重要な人なんかね?」

「重要だとも。ぼくたちがかかわることではないけどさ」

「誰なんです、その人」

拓海が口を挟むと、達弥がゆったりとした口調で説明した。

「ああ、デベロッパーさ。数ヶ月前から、宗一郎さんのところにうかがってるそうだ。うちに関わってもあまり成果は上がるとは思えないけど、まあ…そういうことだね」

どうも藤井の名が出るとき、たいていろくな空気にはならないらしい。

「また例の話か」

森が面白がるように笑って、少し胸をそらした。
達弥は薄く目を閉じて無言のジェスチャーを送り、廊下の奥のほうを見据えた。

「まあ、うちの山の使い道の話は、放っておいても消えないからね」

拓海はなんとなく、その場で黙ったまま立っていた。

部外者だという意識が、こういうときほど強くなる。親族同士の土地や株の話に、遠い親戚の高々一自営業者が口をはさむ余地はない。
その内容を理解できる知識があっても、所有権のないものがヤブから棒に突っ込んでも、誰しも不快になり、余計に自分の立場が悪くなるだけだ。

ちょうどそのとき、奥の座敷のほうから、少し硬い声がした。

「だから私は、外の人間に好き勝手させる気はないと言っている」

宗一郎の声だった。
次いで別の男の、目下から来るように穏やかだが逃げ道のない調子の声が聞こえた。

「好き勝手、ではありません。現状の資産価値と流動性を見れば、遊休地の整理は避けて通れませんよ。維持費も固定資産税も、今後決して軽くはなりません。
相続が重なれば、いずれご親族のどなたかが手放さざるを得なくなる。その前に、こちらで形を整えておいたほうがいいというお話ですぞ」

内容からして、これが藤井という人物の声だろう。
襖は閉まっていて中は見えないが、隙間から紺色の輪郭の人影が前かがみに映っていた。

そこにいる者のほとんどが、あの会話を聞こえないふりで聞いている。

拓海は、なんとなくその場にいたたまれなくなって、半歩だけ後ろへ下がった。

達弥と森の2人は、まるで何も聞こえなかったように進んで、通路を折れていく。それまでずっと、今夜の親族間の集まりについて話していた。

宗一郎の声が、さらに低くなる。

「あなたは知らないかもしれないが、戦後にうちは一度、山を相当量失っているのだ。預金封鎖だの資産課税だの、敗戦で国が潰れたせいでな。国債を紙くずにしたばかりが、あの強欲どもは山林まで押収したのだ。それを祖父たちが努力を重ねて再び取り返してきたものを、また切り売りする気は一切ない。そう言っておけ」

藤井は、少し間を置いてから答えた。

「切り売りしろとは言っていません。有効活用の話です。維持しているだけでは価値は増えず、あなた方の将来の財源に消耗させてしまいます。それはあなたほどの方であれば、理解しているはずです。ですので、我々は単にサポートさせていただきたいだけなのです。決して悪しき話ではないでしょう」

「価値という言葉で、山を全部同じにするな。あれは代えられんものなのだ」

そのあと奥のほうでぎいっと敷居がきしる音がした。どうも誰かが座をとりなしたらしい。
だんだんと声は小さくなり、何を言っているのかは聞き取れなくなった。

拓海はそのまま、そっと廊下を離れた。

屋敷の中庭に面した渡り廊下を歩く。
夜の帳に覆われた板張りの床は、古いがしっかりと磨き抜かれており、底なし井戸に渡された木の橋のように見えた。静かな空気の中、体重をかけるたびにところどころわずかに軋んだ音がさざなみのように響いていく。

障子越しの灯りが庭石を淡く照らし、塀に沿って並んでいる松の木の向こう側は黒い影に消えていた。塀には所々銃眼があり、その近くにコケをまとった灯籠が墓石のようにたたずんでいる。

この家のどこもかしこも、連綿と続いてきた時間の名残があった。

劣化に任せた古びた感じではなく、古びることを許されずに人の力で維持された痕跡がありありと見えている。
拓海は昔から、その感じが少し苦手だった。

そんなとき、渡り廊下の先でゆらりと人影が現れた。

瑞希だった。

彼女はさっきとは着物の羽織を変えていて、髪もきちんと整えられている。顔はしっかりと化粧をしていた。親族が集まり始めたから、それなりの顔をしていなければならないのだろう。
少しだけ目を伏せて、うつむいている。
そしてだるそうに肩を落としていた。

瑞希は拓海の気配に気づいたように顔を上げて、唇の端が引きつるように物憂げな微笑みを浮かべた。

「こんなところにいた」

「俺はおじゃま虫なんで。それより、お前こそ疲れてるな」

「向こう、息苦しい」

そう言って、瑞希は少しだけ顔をしかめた。
人前では、特に親族の前では絶対に見せない顔だった。

「だよな。俺も同じだったら、入りたくないな。また土地の話?」

「うん。土地と株と、あとは誰が何を継ぐかって話。毎年似たようなこと言ってるのに、年々ひどくなってる」

「ややこしい状態だな。けど、見聞きしたくないのもわかるよ。親族全員で株持ってるんだっけ」

「分散してるから余計にややこしいの。昔のまま残ってるせいで」

瑞希はそう言って、ふっと息を吐くと、前髪がふわりと揺れる。

「来る?」

「どこに」

「部屋」

その問いに、拓海はほんの一瞬だけ黙った。
断る理由はない。むしろ、断れない。

「ちょうど俺も休みたかったんだ。行こうか」

瑞希の部屋は、母屋の奥まった一角にあった。
瑞希は懐から取り出した鍵であける。
くるみの羽目板でできた開き戸をひらき、入口脇のスイッチを押すと、カチッという音に合わせて中が明るくなった。

かなり広い部屋だった。
左手の奥に古い机があり、右手には唐草模様の紋様が施された姿見がある。
さらにその近くには年月を感じさせる古いデザインの鏡台があり、そこから手を伸ばせば届くところに、暗い茶色の信州型の木製衣装タンスが樟脳の香りを漂わせて鎮座している。
アッシュリネンのカーテンは2重になっており、内側が茶色。外側がアイボリーの色で、昼間は眩しい光をやわらげていたが、いまは部屋と夜の膜を区切っていた。

子どもの頃から何度も入って、何度も模様替えでこきつかわれてきたので、少なくともプライベートに関したこと以外では知らないところはない部屋だ。

拓海はその扉をくぐったとき、ふと、ちゃんと覚えておかなきゃな、と思って室内を見回した。

どれも見慣れているはずなのに、もうすぐ失うかもしれないもののように見えた。

瑞希は部屋へ入るなり、羽織を脱いでベッドの端に座り込んで、拓海に隣に座るようにうながした。
瑞希はふぅと息を吐くと、「ねえ」と語尾が上ずるように言った。

「ん?」

「さっき、お父様に言われたこと、気にしてる?」

「ん…気にしてないって言ったら、ウソかな。おじさん、おばさんを亡くされてからはひとりだったんだろ。だったら、そう思うのも仕方ないよ」

「かもね。うん、それはわかってる。わかってるけど…」

瑞希は遠くを見るようなかすみがかった目で、室内を見回した。

「この部屋、昔から嫌いだった」

拓海は瑞希の少しかしいだ横顔を見ていた。

「嫌いって?」

「全部。匂いも、古い家具も、静かすぎるところも。おばあさまの趣味で揃えたらしいけど、ずっと借り物みたいだった。自分の部屋って感じがしない」

たしかに、そう言われてみればそうだった。

この部屋は瑞希のための部屋というより、牧野家の娘にふさわしい部屋として最初から出来上がっている感じがある。
彼女が何を好むかより、家が彼女に何を仮装させて、かぶるべき仮面を用意しているのかがそれとなく見え隠れしていた。

「逃げたくなる?」

拓海が聞くと、瑞希はかそけく笑った。

「しょっちゅう」

それから笑みを消して、拓海を見た。

「拓海は?」

「何が」

「この家、好き?」

「好きか嫌いかで言えば…」

そこで言葉を切る。

宗一郎の顔がよぎった。
使用人たちの顔がよぎった。
いつも車を乗り入れる母屋の正面の図がよぎった。
そして親族たちの丁寧な姿もよぎった。

どれもこれも、うわべの清潔さばかりが目につく。

「お前がいなかったら、近寄らないよ。俺、ほとんど部外者みたいなやつだからさ」

瑞希は「だよね」と小さく言った。

次の瞬間、彼女は立ち上がると開き戸を見て、くるりときびすを返すと、まっすぐ拓海の正面に立った。

距離が近い、と思う間もなく、瑞希の手が彼の肩をつかんだ。

「ちょっとだけ」

「瑞希」

「いいから」

彼女はそう言って目を閉じると、もたれるようにしてキスをした。

最初は軽く触れるだけだったのに、離れたあと、もう一度、今度は逃げ場所を探すみたいに深く繰り返した。
拓海はそっと腰に手をまわして、膝の上に瑞希を座らせてから、今度は自分から唇を重ねた。

「…どうした」

濡れた唇を離してから聞くと、彼女は眉を曇らせた。

「なんか、嫌だった」

「何が」

「全部」

それだけで十分だった。

親族の集まり。
父の視線。
家の空気。
牧野家の外側から目的を持って入りこんできそうな人間の群れ。
さっきの土地の話。

瑞希は誰とでもうまく話す。
友人もいる。使用人にも慕われる。親族にもきちんと対応できる。
しかしその絡み合った糸の塊のようなもの全部が、瑞希を押しつぶしかけているのだろう。

拓海は彼女の髪を撫でた。
昔から同じことだよな、と内心で思いながら。

大学を出て、まだ一年と少し。
仕事が少し回り始めただけで、誰かの人生を引き受けるなどと言えるほど、自分はまだ何も持っていない。
だから、いまはこれしかできない。

だが今日は、そのいつもの瑞希の振る舞いが、普段よりも危ういものに思えた。

しばらくして、瑞希が少しだけ落ち着いたのか、ベッドの端に腰を下ろした。

部屋の外からは木々がざわざわと鳴り、遠くのほうで老人たちの笑う声が夜に溶けていった。

「うち、戦後にかなりやられたんだって」

瑞希が、ぽつりと言った。

「うん。聞いたこと、ある」

「預金封鎖とか、資産課税とかで。山林も結構取られたらしいの。物納って形で」

「確か、日本史で聞いたことがあるな。どんなのだっけ?」

「敗戦後に、銀行のお金がほとんど引き出せなくなったんだって。なのに、持っている資産には重い税金がかけられて。
現金が動かせないのに払えって言われても、払えるわけないでしょ。
だから国に山や土地を差し出すしかなかったって、おじいさまたちはよく言ってた」

「それは、ずいぶんむちゃくちゃだな。そこから頑張って立て直したんだ」

「うん。かなり無茶したみたい。だから今の人たち、土地の話になると変に必死なんだと思う。失ったものをまた減らすのが嫌なのか、逆に今度こそ使い切りたいのか、どっちも混ざってる。わからないけど」

瑞希が指先でシーツの端をいじると、花びらに似た模様が広がった。

「昔の人って、何でも隠すの好きだったんだよね」

「何でも?」

「財産とか、文書とか、面倒なもの全部」

その言い方に、拓海は少し笑った。

「面倒なものまで隠すのかよ」

「うちは本当にそういう感じ。知ってる? 戦前、うちの先祖が財宝を隠したって話」

拓海は眉を上げた。

「財宝?」

「うん。よくある昔話みたいなやつ。戦争が始まる前か、その少し前か、とにかく世の中がきな臭くなる前に、表に出せない資産をどこかに移したんじゃないかって。婚姻先のおうちから預かってたものもあったらしいの」

少しだけ沈黙が走った。

「へえ。面白いな、それ。昔話でよくあるやつだな」

「冗談じゃないんだって。でも、何を隠したかは誰も知らないの。なのに、みんな勝手に小判とか延べ棒とか言ってる」

「まあ、財宝って聞いたら普通そう思うだろ。例えば、天正時代の大判とかさ。ちょっとわくわくする話だな」

「でしょ?」

瑞希は少しだけ目を細めて笑った。

「本当かどうかもわからない。ただ、お酒が入ると年寄りがたまに言うの。うちにはまだ山のどこかに、戦前の金が眠ってるって」

「いいな、夢があるな。そしたら、馬を何頭でも買えるだろ」

「馬?」

「牧野、だからさ。確か先祖は戦国時代が始まりだろ。名字からして、馬の餌を育てていた重要な役職についてたのは間違いない。欄間に馬が彫られてるのもそれだよ。だから、馬なのさ」

「…競馬、好きなの?」

「ギャンブルは嫌いだよ。でも、大地を蹴って自由に走る馬みたいになってみたいなぁ、って思ってさ。夢みたいなものさ。みんなもそうなんじゃないか?」

「夢っていうか、執着じゃない?」

その言い方が、妙にこの家らしかった。

金を持っていた家が、戦後に失った。
失った家が、もう一度立ち上がった。

そのくせ、まだ失う前の何かをどこかに残しているかもしれないと、誰もが心のどこかで思っている。

それは確かに、夢というより執着に近い。

「誰か本気で探したりはしてないの?」

拓海が聞くと、瑞希は首を横に振った。

「昔はいたみたい。でも、鍾乳洞だの井戸だの敷地内の地面だの、昔話に出てくる場所をちょっと探して、何もなくて終わり。はい、それだけ。今はそんな話、まともにする人も少ないよ」

そう言ってから、彼女は少しだけ視線を落とした。

「でも和樹兄さんは、ちょっと気にしてたかも」

「和樹さんが?」

「うん。表向きは土地の資料とか古い記録を整理してるって言ってたけど、たまに蔵の古文書まで引っ張り出してたから。兄さん、普段はお酒を飲んだりしてて適当なのに、そんなところは変に真面目だから、昔の数字とか地図とか見始めると止まらないし」

家の将来を背負わされる立場の男が、土地の資料だけでなく、財宝なんて曖昧な話まで気にしていたとしたら、それはただのロマンでは済まないのかもしれない。
単に男のロマンなのかもしれないけど、と内心では同意したが。

「…ほんとにあったらどうする」

拓海が半ば冗談で聞くと、瑞希は少し考えたあと、肩をすくめた。

「面倒くさいことになる」

その答えが、妙に現実的で、拓海は苦笑した。

外で誰かが廊下を走る音がして、二人は同時にそちらを見た。
歩調からすると、使用人の誰かなのだろう。

祭り前の屋敷は、明るく賑やかなはずなのに、どこかでずっと神経が張っていた。

瑞希は胸のところまで手を上げかけたが、そこで一旦動作を止めて下ろして、カーテンを透かし見るように窓へ目をやった。

「この家ね、古いものを大事にしてるようで、ほんとは捨てきれてないだけだと思う」

拓海は何も言わなかった。
言い返す言葉がないというより、その通りだと思ったからだ。

古い家具。
古い土地の境界。
古い伝承。
古い恨み。
古い執着。
古い財宝の噂。

全部が、この家の中では深く息づいている。

いまだに眠ってはいるが、目覚めのときを待って潜んでいる。
そしてそういうものが目覚めたときは、大抵はろくな形で表に出てこないのが、世の中の決まりなのだ。

「ま、落ち着いたら、行こうか。来週は、あの予約必死のパンケーキをおごってやるよ。このあいだの契約で、結構いい額が入ったからな」

「ほんと? りんごジュースもつけてよ!」

「たかるなよ…連れて行くのはいいけどさ、オプションは自分で払ってくれ」

「…ケチ」

「その言葉、使用人のおばちゃんが聞いたら、お嬢様、そんな下品なお言葉を…って嘆くから言わないほうがいいぞ」

「は〜い…」

拓海は瑞希の手をとって、立ち上がらせる。
瑞希は羽織を羽織って、鏡台の前で口紅を引いていた。

待っているあいだ、拓海はふと昨夜見上げた時計塔の影を思い出した。
あの黒い塔もまた、この家が捨てきれなかったものの一つなのかもしれなかった。

⇨第三章:劣等感