「瑞希、疲れてないか?」
「うん、大丈夫」
川端拓海は岩肌をつかみつつ、もう片方の手で遠い親戚の牧野瑞希の手を引いて、暗い洞窟から姿をあらわした。
鍾乳洞の出口を抜けると、遠くの山の稜線はすでに紫色と赤みを帯びていた。山の上部に居座っている樫の木の群れは頭を夕暮れの色にそめている。空気はさほど湿ってはいなかったが、遠くには切れ切れになった赤い雲が散らばっていた。
裂けた岩肌のあいだから外へ身を滑らせた瞬間、湿った石灰の匂いが背後へ遠のいて、そのかわりに、山の斜面を這う草と土の冷えた匂いが鼻に入ってきた。
拓海はいつもの匂いを感じながら、さっきまで肌にまとわりついていた鍾乳洞のひんやりしていた空気は、外へ出ると急に嘘みたいに薄くなるのに、瑞希の体温だけは、まだどこか腕の内側に残っていると思っていた。
「寒い」
瑞希が、小さく肩をすくめる。
闇の中でも、彼女の輪郭は不思議とぼやけなかった。
後ろでまとめた黒髪に、彫りの深い目鼻立ちに陰影がさしている。白い肌と、あごと首とのくっきりしたフェイスラインが浮いていた。
まだ空気に目が慣れないのか、パチパチとまばたきして、つやのある唇を浅くひらいては、深く呼吸をしていた。
先ほどまで鍾乳洞内に置いてきた火照りが残っているのか、頬に赤みがさして、まだ目元には心地よい疲れのようなものが漂っていた。
重ね着したカーディガンに、歩きやすいパンツスタイルだが、それも結構似合ってるよな、と拓海は内心で感じていた。
拓海にとって、瑞希は体を重ねる関係以上に、その気兼ねしない態度が心地よかった。
瑞希は人のいる場にあらわれると、その場が明るくなる雰囲気があった。
それは顔立ちが整っているとか、家柄のよさがどうとか、そういうわかりやすい理由だけで説明するのが難しい。
なんらかの見えない力で人の視線を自分の側へ寄せるものを、瑞希は昔から平然と持っていた。
少なくとも、5歳の頃、親族の集まりで初めて出会ったときから変わらない。
「上着、着とけよ」
拓海が言うと、瑞希はわざとゆっくり振り返った。
「拓海が着せてくれてもいいけど」
「…そういうの、自分でできるだろ」
「そういう返ししかできないとこ、ほんと変わんないよね」
口の端だけで笑い、瑞希は結局、自分で上着を羽織った。
拓海は、こういうとき毎回、自分の反応の鈍さに少し腹が立つ。
他の相手なら、もう少しましな返し方もあるはずだった。冗談のひとつも、もう少し軽く返せる。実際、仕事先でも、友人相手でも、必要なときにはそれなりに愛想よくもできるし、場に応じた顔くらいは作れる。
けれど瑞希の前だけでは、そういう薄い器用さだけが、やけに簡単に剥がれて何もできなくなってしまう。
二人は車へ戻って山道へ出ると、ヘッドライトが濡れたアスファルトに2つの白い円を差し出していた。山にはすぐに暗闇が訪れる。
窓外には、濃い緑色の山の影の中に、明かりのともる家々が点々と並び、暗い夜空の星々の群れのように、きらきらと家庭の呼吸を繰り返していた。
ハンドルを握る拓海の横で、瑞希は窓の外の木々を眺めたまま言った。
「明日からお祭りでしょ。みんなうちに来るんだって。達弥さんも来るそうよ」
「久々だな。やっぱり会えると嬉しいよな」
拓海は平坦な声で返して、瑞希がうなずいたのを見ると、ギアにかけた指を意味もなく動かした。
だが内心では、嬉しいなんて言葉にうなずくなよ、と思っていた。
来てほしくない。
会ってほしくない。
縁談だの親族の目だの、そういう余計なものを連れてくる目障りな連中には、できるだけ瑞希の近くにいてほしくなかった。
瑞希が息苦しい態度を取らざるを得ない状況になるのなんて、見たくもない。
だが、そう考えた時点で、だいぶみっともないものだ。
瑞希は誰のものでもないし、自分のものでもない。
瑞希の状況や人生は、瑞希自身の選ぶものだ。
もちろん、わかっている。
わかっているからこそ、彼女のまわりへ『家名』とか『ふさわしい』とかいう言葉がまとわりつくたび、みぞおちの下のところに不快な熱がこもるのだった。
「嬉しいとかじゃないけど…違うってこともないかな」
車が山を下りたところで、遠くまではっきりと見えるのどかな平地に、コンビニが孤独にたたずんでいた。
拓海はコンビニへ車を入れた。
「飲み物、何がいい」
「甘くないやつ」
「…ブラックコーヒーか?」
「ナンセンスだね〜。そんなんじゃ、ジャバウォックに捕まっちゃうよ?」
「俺はウミガメかよ」
「それは別! なべらかなる炎の向こうで、汝ヴォーパルの剣を取りて、一撃二撃…ってのがジャバウォック退治の必須事項だよ。ほら、ルイス・キャロルに謝ってよ」
「幾何学は得意じゃないんでね。ごめん被るさ」
瑞希は手で口元を隠すと、目元をほころばせて所作よく微笑んでいる。
その割に、言葉の返しはまるで漫才師のツッコミのようだった。
「雑だな」
「拓海なら、わかるでしょ」
「…さあな。でも、言わないぞ、絶対にな」
「わかってるくせに」
そう言われると、わかってしまうのがまた悔しい。
店内は意外と明るかった。
蛍光灯に照らされた白い棚と、磨きすぎた床の照り返しが、いま出てきたばかりの自然な鍾乳洞の闇と真逆の人工的な印象が強くて、記憶にコントラストを感じた。
時計を見ると、すっかり4時をまわっていた。
拓海が冷蔵ケースの前で、ノンシュガーティーにすべきか、仕返しの意味で炭酸水にでもしてやろうかと考えながらペットボトルを見ていると、奥の通路から「あれ、拓海?」と声が飛んできた。
振り向くと、高校時代の同級生の勇斗と、その彼女らしい女が立っていた。
なんか、以前連れていた女とは違うなと思って視線を走らせたことに気づいたようで、勇斗はアイサインを送ってきた。
こんなことで、男同士の友情をガラス細工のように叩き割る必要は何もないのだ。
「珍しいな、こんな時間に」
「まあな」
「仕事帰りって感じでもないし…デートか?」
勇斗がにやにやしながら言ってくる。拓海は反射的に眉を寄せた。
「違うって。のどが渇いただけだよ」
「何が違うんだよ。その顔で」
「その顔って何だ」
「いや、お前、黙ってりゃ、それなりにちゃんとした大人に見えるじゃん。背もそこそこで、体格もしっかりしてるし。なのに、そういう質問されると、変に否定するだろ」
勇斗の彼女が、きゅっと猫のように目を細めて、面白そうに拓海を見る。
「わかる。そういう人って、だいたい本命の前でだけ挙動おかしくなるやつだよね」
「悪いけど、違うって言ってるだろ」
拓海がそう返したところで、自動ドアがひらいた。
夕暮れにたなびく雲を背にして、瑞希が店へ入ってくる。さっき車の施錠を確認していたらしく、手の中の鍵を軽く鳴らしながら、こちらを見つけてまっすぐ歩いてくる。
瑞希は目立った。今日の格好はかなり地味なほうなのに、人の目が一度そちらへ流れると、自然に引き寄せられる雰囲気があった。
勇斗の彼女が、ほとんど無意識みたいに瑞希を見て、それから拓海へ視線を戻した。
その一往復だけで、何かを察したらしかった。
「え、めちゃきれいな人じゃん。絶対デートじゃん」
またいつものやつだ。
だけど、ここで軽い気持ちで肯定してしまったのを瑞希の父に知られたら、もうこの関係は永久におしまいになる。
「だから、違うって」
「どこが」
勇斗が笑う。
「お前、女に声かけられること自体はあるくせに、こういうときだけわかりやすすぎるんだよ」
拓海は、少しだけ言葉に詰まった。
否定しようにも、そこを突かれると面倒だった。
実際、昔から、女に話しかけられることがまったくないわけではなかった。
仕事先で妙に丁寧に扱われたり、飲み会であとから連絡先を聞かれたり、その程度のことなら何度かあった。
けれど、そういう場面で自分が特に得をした覚えも、うまく立ち回れた記憶も、あまりない。
自分にとっては、ままあること以上の意味合いは感じられなかった。
「何の話?」
瑞希がちょうどそばまで来て、鍵を鳴らしながら尋ねた。
「いやあ、牧野さん。こいつが相変わらずだなって」
勇斗が面白がるようにのどの奥で声を出すと、瑞希は人前用のきれいな笑みを浮かべた。
「そうなんですね」
その声の上品さが、拓海には逆にこたえる。
こういう顔を見るたび、やっぱりこいつは、自分の知らない場所でもちゃんとやっていけるのだと思わされる。
自分といるときに見せる顔は、たぶんほんの一部にすぎない。
「車、ロックしたから」
「うん、さんきゅ」
鍵を受け取ったとき、指先が一瞬、拓海の手に触れた。
それだけのことで、さっきまで普通に返していた言葉の置き場所が、急にわからなくなる。
勇斗がその変化を見て、鋭く口笛を吹いた。
「ほらな。どの口でほざいてのやら」
勇斗の彼女も、吹き出すのをこらえきれない顔をしている。
「誰が見ても絶対付き合ってるって、これ」
「カブトムシでもそう言うよね」
「小学校の先生でも朝礼のネタにするだろ」
「聞き間違いかなって思うの、本人たちだけだよ」
拓海と瑞希は、ほとんど同時に口を開いた。
「違うって」
「違います」
見事に声がハモった。
そして勇斗たちはついに、声を立てて笑い出した。
拓海は、その笑いを聞きながら、少しだけ救われるような、少しだけ情けないような気分になった。
他人から見れば、自分はそこまで頼りなくは映らないらしい。
見た目も、仕事ぶりも、最低限の受け答えも、それなりに整っている側に入るのだろう。
けれど、その程度のことは、瑞希がそばに来るだけで、驚くほど簡単に意味を失う。
それこそ、10年以上前からだ。
みっともないほどこじらせているのが、自分でもわかって嫌になる。
選ぼうと思えば、もっと気楽な誰かを選べたのかもしれない。
だが、自分の感性の波長が合う相手なんて、これまでひとりしかいなかったことを、拓海は知っていた。
「とりま、牧野さんも気をつけて帰りなよ」
「大丈夫って。ほら、ナイトがいるんだから…あっ、ごめんね」
二人が立ち去ったあと、拓海はレジ前の床をぼんやり見たまま、しばらく動けなかった。
精算後、車に戻ってから、瑞希が言った。
「意味、わかんない」
瑞希の声には、本気で怒った色はなかった。
「そう見えるのかな」
「…たぶん、夏休みの宿題的な意味じゃないかな」
「…だったら、次はもっとうまい言い訳を考えないとね」
瑞希は平然と言う。
「ほんと、お前って内面は黒いよな」
「高度な処世術と言ってくださいまし〜」
「一理あるけどさ…まあ、カブトムシでもわかるとか、ひどすぎる言われようなんだぜ?」
「否定の仕方でしょ。毎回必死だし」
「お前もだろ」
瑞希は、子どもが怒るような表情になった。
「だって違うもの」
そして膝の上のペットボトルを両手で包んだ。冷たくもないはずなのに、力がこもっているのか、指先だけが白くなっていた。
「うん、違う。ただその顔、あまり上品じゃないから、俺以外に見せないほうがいいよ」
しかし、拓海の胸に、その言葉は引っかかった。
違う。
体の関係はあれど、堂々と名乗れる関係ではない。
6年もこんな関係を続けておいて、恋人だと認めたことは一度もない。
瑞希の家のこともあるから、絶対に人前で認めるわけにはいかない。
そして、瑞希も大人だ。
この曖昧な関係がいつまでも続く保証なんてない。
だが、人前ではともかく、自分と2人だけのときでさえ、『違う』というのならば、その関係は何なのかと問われたとき、拓海にはきちんと反論できる言葉を見つけられなかった。
町を抜け、灯りの少ない道を走り、やがて牧野家の屋敷が見えてくる。
斜面を登っていくと、視界に横一線、仄白く白みがかった区切りが高くせり上がっていった。
その塀の上に黒い瓦積みの屋根がかぶさり、さらにその上には幾本もの黒い松が折れ曲がった奇怪な腕を広げている。
それはまるで、広大な屋敷への侵入を防ぐ防人のようでもあった。
そして左手の奥には、空を突くように丈の高い影も見えていた。
すでに門はひらいていた。
太い門柱に、ずっしりとした太い木製の門をくぐると、奥には母屋の黒い屋根が横たわっていた。
やがて門をくぐったところで、助手席の瑞希の横顔が変わった。
さっきまでの軽さが消え、背筋が少し伸びた。
牧野瑞希になる。
拓海とくだらないことを言い合っていた瑞希ではなく、この家の娘として扱われるための顔に戻っていく。
そして拓海は見慣れない車に気づいた。
母屋の脇に、つやのある黒いスポーツカーが停まっている。
しっかりと磨かれて、高級感のあるタイプだ。
昔ながらの屋敷との対比で、妙に違和感のある感じだった。
「誰の車だろ」
「さあ、見たことないな」
拓海は嫌な予感がして、窓越しに中をのぞき込んだ。
運転席には、男がいた。
年の頃は、20代半ば過ぎくらいだろうか。
だが、服装からはもう少し上に感じられる。
肩幅があり、服もラフながら高そうで、髪型も顔立ちも、いかにも見られることに慣れている感じがある。
スマートフォンをいじっていたその男は、拓海の視線に気づくと、露骨に嫌そうな目を向けてきた。
拓海は無意識に一歩引いた。
その隣で、瑞希が車に近づいた。
男は彼女の顔を認めると、するりと窓を下げた。
「やっと人が来た。もしかして、牧野さん?」
口調が軽い。距離の詰め方が、最初から妙に近い。
「そうですけど…どちらさまですか?」
「俺、森拓己って言います。和樹さんの知り合いでさ。連絡してるんだけど、まだ来なくてさ」
拓海は、俺と同じ音の名前だなと思った。
だが見た感じは、派手で感じの悪い男にしか見えない。外見だけではなく、目の走らせ方に人を値踏みする感じが見え隠れして、遠ざけたい雰囲気があった。
「兄さん、お兄様の……」
瑞希が少しだけ考えるように目を細める。
牧野和樹は宗一郎の息子で、瑞希の兄。広告会社の社長をしている。
そして次期当主候補の筆頭と目されていた。確かに、親からそのまま受け継ぐので妥当だろう。
拓海は、あの人はいつも俺にあたりが強いんだよな、と嫌なイメージが脳裏によぎった。
森は白い歯が見えるように笑った。
「いやあ、待たされちゃって。仕事の件で打ち合わせに来たんだけどさ。けど、君みたいな人が出てきたなら、結果オーライかも」
言いながら、視線が瑞希にまとわりつく。
慣れたように、胸元から足先まで視線が走って、また顔に戻る。
さも慣れたごまかしが見えすぎていた。
瑞希は一見、楽しそうに相手をしていた。けれど、少し離れた場所から拓海が見ていることに気づいた瞬間、口元の笑みがわずかに整って、社交辞令の顔に一変した。
「中で待たれますか。お兄様なら、たぶん、もう来ていると思います」
「え、じゃあ案内してもらっていい?」
森は気軽に車を降りた。
背筋を伸ばすと、拓海よりも背が高く、体つきも鍛えられてしっかりしている。
シャープな顔立ちというのか、いい意味で雑誌の表紙を飾ってもおかしくない感じである。
拓海は、俺よりよっぽど男前じゃんと思って、自分が情けなくなった。
瑞希が振り返る。
「拓海も来るでしょ?」
行かない、と言えるわけがなかった。
三人で玄関へ向かう石畳を歩く。
あたりはすでにしっとりした暗がりが水のように沈んでおり、体を撫でていく。
途中からは地面の印象が変わり、びっしりと撒かれた白い石に、大理石の踏み石が点々と道案内していた。
和風の庭園は静かで、鯉のいる池のあたりから水音だけがぽちゃんと、ときどき聞こえた。
ツツジ類の丸い植え込みがうずくまったように点々と並んで、黒い影の塊として見える。
玄関で使用人が客の名を聞くと、すぐに奥へ伝えに走った。
森は靴を脱ぎながら、柱や調度をちらちら見ていた。親しんだというには大げさすぎるが、場に気後れする感じはまるでない。
何か推し量るように、辺りに視線を走らせていた。
そのとき、廊下の奥から現れた男と、拓海の目が合った。
背筋の伸びた男だった。年齢のわりに体つきも崩れておらず、目つきには、人を値踏みする癖がそのまま残っている。拓海とはあまり身長差もない。
この辺りの山林を所有している地主であり、瑞希の父の牧野宗一郎だった。
宗一郎はまず娘を一瞥し、それから拓海に視線を止めた。
「またお前か」
その一言だけで、玄関の空気が冷えた。
「…こんばんは」
「あいさつはきちんとできるようだな」
宗一郎は表情も変えずに言った。
「いいかね。あの子は、そろそろ結婚相手を考える頃だ。いい加減、理解してはどうかね。きみが悪い人間ではないとわかってはいるが…このまま瑞希の隣に置く理由もなかろう」
胸の真ん中を、横から棒で殴られたみたいだった。
拓海は一瞬、何も言えなかった。
反発したい気持ちはあった。だが実際に口をついて出たのは、自分でも嫌になるほど弱い言葉だけだった。
「…頼まれて、運転手代わりに連れて行っただけです」
宗一郎は短く息を吐いた。
「なら、その役目だけ果たして帰ればいい。だから――」
瑞希が、「お父様」と一言口にした。口元に笑みはあるが、目は笑っていなかった。両手を握りこぶしにして、震わせていた。
宗一郎は聞こえなかったように森のほうへ向き直った。
「ああ、森くんか。和樹ならすぐ来る」
「あ、どうも。突然すみません」
森はさっきまでとは違う、少し愛想のいい声を出した。
そういう切り替えの速さが、拓海にはますます癪に障った。
その場は自然に崩れ、森は使用人に客間へ案内されていった。瑞希も奥へ呼ばれ、拓海だけが取り残される。
虫の鳴き声だけが聞こえていた。
この屋敷は、五歳の頃、親に連れられて以降、どこもかしこも隅々まで知っている。
盆にも正月にも、親族一同で顔を合わせてきたこともよくあったことだ。
拓海は庭をぐるりと見回して、子どもの頃は、瑞希と庭の石を宝石と見立てて集めて、両親に怒られたことを思い出していた。
だが、宗一郎の厳格さは、あのときから微塵も変わらない。あの人から見れば、自分はいつまでも『またお前か』でしかないのだろう。
親から見れば、年頃の娘に、変な男がいつもそばにいるのは気になるのだろう。
俺たちの関係はそろそろ終わるのかもしれない、と拓海は思った。
瑞希はいずれ、この家にふさわしい相手と結婚する。
そうすれば、自分はただ、昔から家の周りをうろついていただけの、身のほど知らずの遠縁として片づく。
誰も驚かない。
瑞希も、拓海との時間は子どもの頃のひとときの楽しい時間として、いつしか忘れていく。
それこそ奇跡でも起こって、何かの小説であったように、自分が誰からも認められる人物として変貌すれば、「よし、行こう」と堂々と瑞希を連れ出せるのかもしれないのだが。
だが、このまま仕事が順調にいったとしても、そんなことは万が一でもありえないことだ。
だからこそ、それが一番起こりうる結末なのだろう。
拓海は玄関脇の控えの間に入り、スマートフォンを取り出した。
賃貸。
引っ越し。
町外れ。
安い部屋。
そんな単語を打ち込んでは消し、また別の地名を入れる。
ここから少し離れた町へ行けば、呼ばれてもすぐには来られない。たぶん、永久に会わずに済む。
本当に、会わずに済ませられるのか。
自分への問いかけがよぎった瞬間、うじうじしている自分の情けなさに苦笑が漏れそうになった。
そのとき、襖の向こうの廊下から、女たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「今年も閉めるんでしょう、あそこ」
「もちろん。というよりも、すでに閉めてますよ。以前に野良犬が入ったことがあったじゃないですか。それにおめでたい祭りの夜に、誰が好きこのんで時計塔なんか」
「でも、昔は開けてたんでしょう?」
「昔はね」
少し間が空いた。
拓海は画面をタップする指を止めた。
確か7歳頃のことだった。
時計台の鍵をくすねた瑞希についてくるように『強要』されて、一緒に時計台へ忍び込んだことがある。
しかし昼間でも薄暗い時計台の中に入った途端、瑞希は急に「男の子なんだから先に行きなさいよ」と先頭に立たせてきた。
あの螺旋階段の途中には、用途のわからない小部屋がいくつもあったっけ。
最上階にはベランダ――建造当時の時代に合わせるならば露台があって、高い手すりの向こうから屋敷を見てはしゃいでいたことがあった。
「またその話?」と別の声がした。
けれど、その言い方にも、本気で笑い飛ばす軽さはない。
「…昔、お妾さんが焼け死んだのも、祭りの前の晩だったって」
「ちょっと、声が大きいですよ」
「だって、床の黒い跡、まだ奥に残ってるって聞きましたよ。引きずったようなものとか、燭台についた黒いすすとか…」
「確か、奥様にずいぶん…ねえ」
「やめなさいって」
「でも子どもを産んだあとになんて…で、見たんですか」
「そんな! 見てませんよ。見るわけないじゃないですか」
そこで二人の声が、急に細くなった。
拓海も合わせたように息をひそめた。
「でも、聞いた人はいるって」
「何を」
「…女の声。二人分」
会話はそこで途切れた。誰かが近づいてきたのだろう。衣擦れの音が遠ざかり、廊下はしんと静まり返った。
拓海はスマートフォンを伏せたまま、しばらく動かなかった。
親に聞かされたことはあったが、記憶の底に閉じ込められた断片がよみがえってきた気がする。
瑞希に聞くべきか、怖がるかもしれないから別の者に聞くべきか、悩ましいところだった。
怪談のせいか、明るい屋敷の中にいるはずなのに、急に外の闇が近くなったような気がする。
立ち上がって、縁側へ出る。
目を凝らして敷地の奥を見ると、ざんばら髪を思わせる濃く黒い影の塊のような高い黒松の群れが、ゆるやかな斜面に沿ってへばりついていた。
その奥の高い位置から、紺色に縁取られた雲を背景に、黒松よりも頭ひとつ以上高い、時計台の影が立っていた。
目で見れば近かった。
だが、その近さは視界の中だけのものだった。
明治時代に造られたという石造りの塔は、黒い影としてそびえ立っていた。
高さにして約12メートルほどだった。
先端部は角錐状の屋根になっており、その下には巨大な文字盤が設けられていた。
塔の中腹より少し高い位置から黒松の枝がびっしりと茂って、そこから下は影をまとった暗い色に沈んでいる。
そして枝葉より数メートルほど上に、石造りの露台が見えていた。
距離は母屋から直線400メートルほどなので、さほどないように見えるが、実際に近寄るには遠い。
近くの水源から引いた複数の堀に取り囲まれて、しかも各堀にかかった橋が遠くに位置しているので、見た目ほどまっすぐ行けるわけではなかった。
昼に見れば、あの塔はただ古びた建物にすぎないのかもしれない。
だが夜が近づいた中で見ると、時計台は屋敷の一部というより、屋敷とは別の時間を抱えているように見えた。
昔々、あそこで妾が身を焼き尽くして倒れた。
焼けて黒ずんだ手で石畳の床をかきむしり、体を引きずって。
その跡がいまも残っているという。
もちろん、そんなことはありえないだろう。現実的ではない。
だが、そんな不気味な映像が次々に脳裏に浮かんだ。
あの家では、女をめぐることは、昔からろくでもない終わり方をする。
そんな考えが、妙に胸の底へ沈んだ。
そのとき、塔の上の窓に何か動いたような気がして、拓海は思わず目を凝らした。
だが、それはたぶん、枝の影にすぎなかった。
それでも、彼はしばらく目を離せなかった。
屋敷には次々に車が入ってくる音が聞こえて、母屋のほうからは、人の話し声と笑い声がかすかに聞こえてきた。子どもたちが親に何かねだっている言葉も聞こえる。
明日の祭りを前に、親族たちが集まりはじめているのだろう。
拓海は、父さんも母さんも、旅行中でなければ喜んで来ただろうと想像した。
屋敷の灯りはあたたかく、明るく、そこに引き寄せられる魂のように、次々に人が集まってくる。
それとは対照的に、時計塔だけは誰にも呼ばれず、地上を這い回っている人間たちをまるで虫けらと見なしているかのように睥睨していた。
それはまるで、ずっと昔に内側でついた火を、いままた広げる準備でもうかがっているようだった。