警察が来たのは、通報から三十分もしないうちだった。
最初に真っ暗な山道を上がってきたのは、赤色灯を回したパトカーの光だった。ヘッドライトが長屋門の太い梁を白く浮かび上がらせ、その下に赤色灯を回したパトカーがくぐってきた。
青楓の葉と真っ白な塀、夜露の浮いた下草が、その赤を受けてぬらぬらと色を変える。つづいてもう一台、さらに遅れて鑑識車らしい箱型の車が高台の下まで乗りつけて、車内から何かを取り出して走ってきた。
誰かが「来た」と言ったが、その声は安堵より、むしろ現実が本当にここへ来てしまったことへの怯えを含んでいた。
時計台の下には、まだ焦げた臭いが濃く残っている。
火は消えても、臭いだけはなかなか消えない。焼けた布、焼けた木、そしてどうしてもそこから分けきれない、肉のにおい。山の湿気を含んだ夜気に混じっても、それはしつこく鼻腔の奥に居座っていた。
拓海は高台の縁に立ったまま、その臭いをごまかすように浅く息をしていた。
達弥は少し離れた木の根元に座り込み、両膝に肘をついてうなだれている。
和樹は立ったままだったが、表情は硬く、何か考えているというより、考えることを止めているような顔を、達弥に向けていた。
屋敷から追いついてきた親族たちは、高台の途中で止められていた。宗一郎だけは押し切るようにしてここまで上がってきていたが、死体のそばには近づかず、住職のそばに立っている。
最初に現場へ入ってきた警官は、手早かった。
規制線代わりのテープを伸ばし、照明を立て、地面の様子をざっと見て、すぐに「関係者の方は下がってください」と言う。その口調には、怪談も名家も祭りも関係がない。ここから先は、ただの現場だった。
その後ろから、警察の制服をまとったどっしりした体格の男がゆっくり歩いてきた。
丸い鼻の脇から深いほうれい線が走っており、真横に引き結んだ口がくっきりと映っている。
その口が底辺となって、鼻が頂点の三角形のように見える。体格は重量感のある中年太り系だが、足取りは早かった。機能性重視で短く刈り込んだ髪には白髪が混じり、顔立ちは鋭すぎないのに、目だけが妙に静かだった。
男は一度、時計台を見上げ、それから地面の焼死体へ目を落とした。何かに驚いた様子はない。ただ、見たものをそのまま記録していくような視線だった。
「阿部警部です」
拓海の近くにいた若い警官が、小声でそう告げた。
阿部は誰にも挨拶めいたものをせず、場を一瞥した。
焼けた地面。草の倒れ方。時計台の壁面。森へ続く斜面。懐中電灯ではなく、警官の立てた白い投光器の光が、その一帯の影をかき消すように、容赦なく照らし出している。
「最初に駆けつけたのは」
阿部が振り向きもせずに言った。
その声に応じるように、和樹が半歩だけ前へ出た。
「…俺と、達弥と、こちらの川端拓海さんです」
阿部はそこで初めて三人を見た。
一人ずつ、顔を見るというより、服の乱れや靴の泥、息の整い方まで含めて一瞬で測るような目だった。
「現場に触れましたか」
「火を消すために」
和樹がうなずいた。
「水と布を使いました。まだ燃えていたので」
「死体は動かした?」
「いいえ」
達弥の声は、少し掠れていた。
「火を消しただけです。必死にばさばさとあおぐようにして、なんとか消し止めました。顔を見ようとしたけど…その、もう…」
言葉が途切れる。
阿部はうなずきもしない。ただ「そうですか」とだけ言って、若い警官に何かを目で指示した。
すぐにみなは屋敷に戻された。
屋敷には、使用人含めて60人近い人数がいたので、分けて事情聴取が行われることになった。
さっきまで会食のために開け放たれていた襖は、いつの間にか閉じられていた。
数部屋分をぶち抜いてひとつの広間にしていたはずの空間が、いまは白い襖でいくつにも区切られ、警察官がそれぞれの部屋に関係者を呼び入れている。
長い食卓には、手つかずの小鉢や、半分だけ残った酒杯が並んでいた。倒れた箸袋が畳の上に落ち、座布団が一枚だけ斜めにずれている。宴の形はまだ残っているのに、そこにもう宴の空気はなかった。
閉じられた襖の表面には、外の赤色灯がぼんやりと滲んでいた。赤い光が白い紙の上をゆっくり流れるたび、隣室に座る人影が黒く浮かび、また消える。一枚隔てた向こうからは誰かのすすり泣く声。別の部屋から漏れる警官の淡々とした質問。答える親族の小さな声が聞こえていた。
瑞希は親戚の女性たちと一緒に隣の間へ移されていた。襖が閉じられる直前、生成りのカーディガンの袖を胸元で握りしめているのが見えた。
拓海は大広間の隅の柱に背中をもたせて、ぐったりと足を伸ばして座っていた。格天井に人々の声がやわらかく響くが、いまはその声自体に圧を覚えるほどだった。
疲れのせいか、足を伸ばすだけでもすっとした心地よさがあった。
正面を見上げると、横に長い絵の中で、九頭の馬が平原を走っていた。縁起物として飾られたものだと、以前、瑞希に聞いたことがある。馬が九頭で、うまくいくというものらしい。
牧野の名にふさわしく、釘隠しや欄間などの至るところに、馬を模したものがある。
だがいまはそのどれもが、警察官の実務的な動きと声の下で、意識もない単なるものに成り下がっていた。
目の前の若い警官がかがみ込んで、手帳をひらいた。
「お名前からお願いします」
「川端拓海です」
事情聴取は、形式通りに淡々と進められていく。
職業、年齢、集まった理由などなど…
「今夜は何のためにこの屋敷へ?」
「祭り前の親族の集まりです。ぼく…私も親族のひとりとして招かれておりまして。そして瑞希に…いえ、牧野瑞希さんに車を頼まれて、夜もふけたころに上がろうかと思っていまして」
「事件発生時、どこにいましたか」
警察官はしかつめらしい顔で、鉛筆の先っぽでメモ帳の隅をつついていた。
「母屋の軒下です。西に面した庭側にいました」
「誰と?」
「瑞希さんとです」
若い警官のペン先が一瞬だけ止まる。
なんでそんなことを強調する。
拓海は内心で舌打ちしたくなったが、表情には出さなかった。
「お二人きりで?」
「はい、少し話していました」
「どのような?」
「…雑談です。食事のあとだったので」
警官はそれ以上深くは掘らなかった。おそらく順番の問題なのだろう。
今はまだ、全員の位置関係を機械的に置いている段階だ。
横目で、態度こそ落ち着いているが異常事態に苛立った様子の人々に、目を走らせている。
「では、鐘が鳴ったあと、何を見ましたか」
拓海は目を閉じかけて、やめた。
言葉にしようとすると、どうしてもさっきの光景が、現実感を失った絵のように浮かぶ。扉。闇。火。悲鳴。落下。森へ消える火の塊。
「時計台の、露台のところを見ました」
「なぜです?」
「音の方向に目を向けたら、あの白い文字盤が目に入って。ちょうど十時なのがわかって、そこから自然と目に入った感じです」
「では、その段階で、人のような存在が見えたんでしょうか」
人のような存在。
拓海は例の妾の怪談を想像してしまった。
焼け焦げて黒ずんだ体が、石畳の床や壁にすすのあとを残していく…
思わずブルっと身震いした。あのとき、ひめがきのような手すりの向こう側に、月明かりで縁取られた黒い棒のような人影が露台に浮かび上がっていた。それの全身を縁取るように橙色の混じった赤い炎が吹き上がって…
「いえ、人、人でした」
「では、それは」
警官は、障子越しに時計台の方向を見た。
あのどす黒く焼けた死体は、まだ警察の監視下で検分を行なわれていることだろう。
「あのご遺体だったのですか?」
「はい、そうです。ただ、遠かったし、黒い煙を上げて燃えていたので、細かくは。でも、人影でした。次の瞬間には燃えていて。露台のところで、はい」
「その人物の顔は見えた?」
「いえいえ、とても見えませんよ。こう…母屋から見上げる形になりますし、高かったし、炎で輪郭が崩れていたので」
「落下まではどんな状況だったのですか?」
「申し上げた通りです。突然全身に炎をまとったみたいにぼうっと燃え上がったあと、その人が何かこう…空をかきむしるように両手を振り回したり、炎がついたまま左右に移動しては体を曲げたりとかして、最後は力尽きたように手すりにもたれて、それから乗り越えて地面に…」
「なるほど。では、その燃えた方以外に、何者かの姿はありませんでしたか?」
「それは、なかったと思います」
それははっきり言えた。
あの露台に至る扉のところの炎には、ほかの人影の輪郭は見当たらなかった。
「とはいえ、望遠鏡でもないとわかりませんが、燃えていた人は暴れるように走り回っていたので、あそこにほかの人はいられなかったはずです。確か、そんなに広い場所でもなかったはずですから」
若い警官はそこだけ少し強く線を引くようにメモした。
「では、その燃える人があらわれたあと、扉を閉められる様子は見ていない?」
「はい、それは間違いありません。といっても、十秒くらいだと思いますが、それからは知りません…ぼくはすぐ、走っていきましたから」
そのとき、広間の奥のほうから怒号がして、みなはびくっとして振り仰いだ。
宗一郎だった。
「だから私は、あれが裕治かどうかもまだわからんと言っている!」
夜中の空気を震わせる声だった。
拓海がそちらを見ると、壁の燭台型電灯の光を後光のようにして、宗一郎が阿部に向かって身を乗り出しているのがくっきりと縁取られていた。
達弥が横からなだめ、住職が何か言っている。
若い警官は「少々お待ちください」と言って席を外した。
拓海は一人になった。
いろいろなところから、断片的に声だけが降りてくる。
「家族ですから!」
「現時点では身元確認前です」
「いえ、関係あります」
「服の特徴くらい――」
「まだ捜査中です」
親族の誰かが泣いているような気配もあった。
拓海は、幼稚園児くらいの親類の男の子が今起こっていることを尋ねてきたので、努めて笑顔になりながらごまかして頭をなでてやった。
白い障子に目を向けると、旋回する赤色の光がぼんやりと映っては、同じ範囲を平行に動いている。そして黒く塗られた真鍮製の引手が天井灯にきらっと光っていた。
恐怖か緊張がピークに達しているのか、何かを引きずるようにすすり泣く声が聞こえている。
各部屋を区切っている天井の欄間には、透かし彫りされた馬の群れが光に縁取られて燃え立っているように見えていた。
少しして、別の警官に伴われて、和樹が連れてこられた。拓海から少し離れた場所に座らされた。
ジャケットやズボンの裾には、枯れた松の葉の切れ端や泥の汚れがついている。頬に酒色が残っているが、あごのあたりには緊張が残っていた。
拓海と視線が合うと、和樹はぎょろっと目だけ動かして、ほんのわずかに顎を引いた。
さらに達弥も連れてこられた。
こちらは明らかに様子がおかしかった。
唇は乾いて白くなり、震えている両手は膝の上でぎこちなく握られている。
いまの状況を頭の中で受け止めきれていない顔だった。
阿部警部がやって来たのは、そのあとだった。
若い警官の事情聴取とは違い、彼は椅子に座らない。少し離れた位置に立ち、拓海をまっすぐ見た。
「川端さん」
「はい」
「あなたが最初に裕治ではないかと言ったそうですね」
拓海は喉の奥を一度だけ鳴らした。
「…そうです。あ、でも言った、というか。体格が、そう見えたので、思わず口走ってしまった感じで」
「顔は判別不能ですが? それでも、そう思った理由は」
「肩幅と、体つきです。昔からよくしてくれましたし、最近も会ったので、とても似ているなと。あんな合わないコートを着るのかとは思いましたけど、それでも体格が似ていて。でも、あの場に来ていないと聞いていたのが裕治さんだったから…そう思ってしまいました。みんな、母屋にいましたから」
阿部はその答えを急かさずに聞き終えた。
「そう思ってしまいました、と?」
「はい」
「あなた自身も、確信はない」
「それは…ありません」
阿部は視線を一度だけ外側に向けた。
直接目にすることはできないが、きっと時計台の周辺では、鑑識が死体のあった位置を囲み、写真を撮り、何かを拾い上げているのだろう。
「時計台の中には、入りましたか」
「まだです」
拓海は子どもの頃、瑞希に無理やり先頭に立たされて入ったことを思い出した。薄暗く、埃っぽく、高い天井に、螺旋階段に、途中の踊り場に濃い茶色に塗られた椅子が置いてあったのが、脳裏に映像でよぎった。
ただ入るためには鍵が必要だし、あれからはずっと入っていないので、いまはどうなっているのか、想像もつかない。
「鐘が鳴る前に、塔の周辺で不審な人物は見た?」
「いいえ」
「塔へ近づく人影も?」
「見ていません」
阿部はそこで、少しだけ間を置いた。
「では、あなたが仰るとおりだとすれば、その炎上は、誰も近づかずに起こったとしか言えないでしょう。燃えた方自身、裕治さんだとすれば、ご本人がやったとお思いですか?」
「それは…わかりません。でも、会ったときに少し落ち込んでいた感じはありましたけど、そんなことをするとは思えませんでした」
「では、今夜、牧野家の人間関係は穏やかでしたか」
その問いは、不意打ちのようだった。
拓海は思わず阿部の顔を見返した。
阿部の表情には何もない。だが、聞いていることはただの時系列ではなかった。
今夜この家の中に、殺意へつながるような動機があったかどうかを、最初から見ているのだろう。
「…穏やかではなかったと思います」
「具体的には」
「土地の話です。山林とか、株とか、使い道とか。そのことでずっと食事の席でも揉めていました」
「誰と誰が」
拓海は息をついた。親族が近くにいるというのに、口にするのはさすがに気まずかったようで、さっと顔に陰がさした。
「宗一郎さんと、株を持ち合いしている親族のほとんどだと思います。経営権が複雑に絡んでて。あとは藤井実さんっていうデベロッパーの人が、ずっと話に入っていて。それから…いろんな人たちがです」
「藤井氏は親族ではない?」
「はい」
「今夜は、ずっと屋敷内に?」
「たぶん。少なくとも会食のあとまではいました」
「なるほど、あとでお尋ねしましょう。あなたは関わらなかったのですか?」
「はい。ぼくは遠縁なので、そういったのには全然関係ありませんでした。詳しくはわかりませんが、ぼくの親も、株式は持っていないはずです」
阿部警部は拓海の顔をじっと見ながら、小首をかしげた。
「ありがとうございます。またのちほど、細かい話をお伺いするかもしれません」
そう言って離れかけ、片足で畳を踏みしめたとき、ふと足を止める。
「川端さん」
「はい」
「失礼ですが、あなたは、あれを怪談だと思いますか」
思いがけない問いだった。
拓海は返事に詰まった。
怪談。
たしかに、十時の鐘が鳴ったとき、あの火だるまの人影を見たとき、頭のどこかはそう思いかけた。時計台の伝承。争う女の亡霊。止まったはずの鐘。
けれど高台へ駆け上がり、くすぶっていた死体の熱を間近に感じたあとでは、それはもう現実の出来事であって、怪談ではなかった。
「…思いません」
阿部は表情を変えなかった。
「そうですか」
それだけ言って、今度こそ去っていった。
その背中を見送りながら、拓海は膝の上で手を組んだ。
遠くで、また宗一郎の声がする。今度はもう怒鳴り声ではなく、低く押し殺した声だ。達弥が答え、住職が何かをなだめるように言う。藤井の声は聞こえない。和樹はうつむき、時々壊れたように短く息を吸っている。
そのとき、鑑識と思われる格好の男がやってきて、阿部に伝えた。
「警部、塔内の確認ですが――灯油の反応、ありました」
拓海は思わず顔を上げた。
「転落現場の手すりなどのところにも、反応が残っていました。また、ベランダへ出る手前の部屋に、カラになったポリタンクが転がっています。
着火点の様子からしますと、一箇所で燃え続けたようです。
まだ暗くてはっきりとはしていませんが、露台周りには大幅な延焼痕は少ないように思われます」
阿部はぎょろっとした目をむいて、肉厚な顎の下に手を添えた。
「詳しくは?」
「内部、撒かれた痕はありますが、長く燃えた現場のようには見えません」
その言葉が、夜の空気を少し違うものにした。
拓海には専門的なことはわからない。
けれど、一箇所で燃え続けた、という言い方だけは、妙に耳に残った。
屋敷からも、人があれほど燃えているのが見えていたのに、時計台内では一箇所が燃え続けた。
阿部が短く何か指示を飛ばす。
親族たちは、警察の一挙手一投足を不安な目で見つめていた。
その警察の側では、何かの向きが変わったのがわかった。
これは、怪談ではない。
それどころか、単純な焼身自殺ですらないのかもしれない。
つまり、何者かが時計台内で何者かに灯油をかけた上に火をつけて、その何者かが火だるまとなって露台から飛び出して転落していったのかもしれない。
その現実が、じわじわと夜の底からせり上がってくる。
少しして、若い警官がまた拓海のところへ来た。
「今夜はもう、屋敷から離れないでください。入口は封鎖させてもらいます」
「え、帰れない、ってことですか」
「はい。関係者全員です」
祭り前の親族の集まりだったはずの夜は、もう完全に別の夜へ変わっている。
燃え盛る炎のあとに来たのは、沈黙ではなかった。
光だった。質問だった。記録だった。
そして、人が人を疑い始める冷たい現実だった。
拓海が、奥に集まっている従姉妹たちと、瑞希のほうを見た。
彼女たちは不安を紛らわすために、互いに会話をしているようだった。
そして瑞希は、拓海の視線に気づいたように振り向いた。
もちろん、それは気づいたのではなく、たまたま顔を向けた動作に過ぎなかったのかもしれない。
壁の燭台の白い明かりを浴びて、眉尻を下げて、恐怖に目を見ひらいている顔が、白く浮かび上がっている。
生成りのカーディガンの袖を握ったまま、親指の爪で布を何度もこすっていた。
その仕草を、拓海は知っていた。
怖がっているときの癖ではない。
瑞希が、何かを隠そうとしているときの癖だった。
そして彼女の頭上では、障子越しの赤い光に包まれた透かし彫りの馬が、炎に包まれたまま走っているように見えていた。