第十章:地下の洞窟

午前一時半を少しまわったころ、屋敷内は静まり返っていた。
夜の山では、フクロウの鳴き声が尾を引くように響いている。

あの火だるまの怪談が実現して一日しか経過していないのに、屋敷は大きな獣が身を横たえたように、暗い廊下を伸ばしている。

拓海は、客間の襖を少しだけ開けて外を見た。

廊下の燭台型の電灯は半分ほど消され、残った灯りだけが板張りの床に淡い輪を落としていた。奥を見ると、板張りの壁に薄らいだ人間の影が映り、片手を上げたかと思うと急に上体をかたむけて、咳き込む音がした。そして再び部屋に入ったのか、ふっと消える。
柱の影は黒く、欄間に彫られた馬の足が、闇の濃さが変わるたびに、いまにも抜け出てくるように見えた。

誰もいない。

拓海はいつも鍾乳洞内の寒さ対策の分厚い上着を羽織り、足音を殺して部屋を出た。

手には小型のLEDランタンを持っている。車から持ってきたものだ。黒い樹脂製で、手のひらより少し大きい。
使い慣れたものだった。
なぜ車に常備しているのか、人前で説明するにはいろんな意味で危険な理由しかない。だから説明しないことにしている。

玄関へ向かう廊下は避けて、しんと静まり返った奥に進んで、母屋の奥へ回る。

警察の目があるのは主に玄関、広間、時計台へ続く庭側だった。屋敷の裏手にある地下倉庫へ降りる階段までは、普段から使用人が食材を取りに行く場所で、深夜でも完全に閉ざされることはない。

分厚い板戸に囲まれた廊下を何度か折れて、拓海は一度だけ振り返った。

暗い廊下の先の低い位置に、赤色灯の名残のような赤い明かりが、死人の魂のように灯っていた。それはまるで、夜の屋敷の血管を流れる血のように見えた。

地下倉庫へ降りる階段は、奥座敷のさらに裏手にあった。

古い木戸を開けると、ひやりとした空気が足元から立ち上がってきた。
石造りの階段が、大口をあけたような暗がりの中へ沈んでいる。
壁には手すり代わりの太い木が取りつけられていたが、湿気を含んで黒く光っている。

拓海はランタンを点けず、スマートフォンの小さな灯りで足元を照らして、深く降りていった。

地下倉庫には、薄暗い常夜灯が一つだけ点いていた。
天井は低く、壁は石と土が混じったような質感で、ところどころ白い石灰が粉を吹いたようになっている。
木箱に入った根菜、瓶詰め、酒樽、味噌の入った甕。天然の冷蔵庫として使われている場所だけあって、空気は外よりずっと冷たく、少し甘い発酵臭と湿った土の匂いがした。

奥の壁には、黒ずんだ鉄の扉があった。
表面には錆が浮き、蝶番の部分だけが妙に新しい油で濡れて、銀色に光っている。
普段から完全に封印されているわけではない。昔から、屋敷の者が鍾乳洞へ出るための入口として使っていた場所だった。

その扉の横に、瑞希が立っていた。

濃紺のストレッチパンツに、薄灰色のカットソー。その上に、生地の厚い深緑のマウンテンパーカーに袖を通して、左手を腰に当てて張っていた。
すでに靴は、使い込まれた焦げ茶の防水ショートブーツに履き替えてある。つま先で床を鳴らすように足を浮かせると、靴底に白っぽい石灰を帯びた赤土が残っているのが見えるが、表面は丁寧に拭われている。

昼間の瑞希より、ずっと動きやすそうな格好だった。旧家のお嬢様というより、まるでこれから夜の遠足に行く女の子に見える。
拓海と二人で、山に入るときの格好だった。

ただ、顔は少し硬かった。

「遅い」

声はひそめていた。
肩をすくめる動きに一歩遅れて頭を動かすと、低い位置でまとめた髪があとを追って揺れる。右手はマウンテンパーカーの袖口を握っていたが、指を強く曲げていた。

「一分も遅れてない」

「時間の問題じゃないの。ここで一人で待つの、嫌なの」

「…悪かった」

「早すぎ。余計に怖くなるから」

瑞希は鉄の扉の向こうを見て、声をさらに落とした。

「本当に行くの?」

「今更。バッグを回収するだけだろ」

「念のため言っておくけど、今日はバッグだけだからね」

「もちろん」

「全然信用できないんだけど」

瑞希はじっと拓海を見た。

「これまでもさんざん実績積んでるでしょ」

「そこまで信用ないのか?」

「うん。だから、馬頭観音も、時計台も、裕治おじさまのことも、いまはなしね」

「命令なのか」

「確認です」

拓海は反論を諦めた。
ランタンを掲げてスイッチを入れると、真っ白な光があたりの輪郭ごと白く浮かび上がらせた。

「足元、気をつけろよ。濡れてるところがあるから」

「知ってる。拓海より、私のほうが転ばないと思う」

「そんなふうに油断してると、転ぶんだぞ」

「縁起でもないこと言わないで」

鉄扉を押すと、蝶番が重く鳴りかけて、拓海は思わず手を止める。
改めてゆっくり力をかけ直すと、蝶番は音を立てずに、向きだけ変えていった。

二人が通れるだけの隙間がひらくと、夜よりも暗いうつろな闇がたたずんでいた。
ランタンの白い光を差し込むと、湿った岩肌がいきなり浮かび上がった。

石灰岩の壁は白く、ところどころ黄色や灰色に染まり、濡れている場所だけが魚の腹のように鈍く光っている。
水の流れた跡は白く染まって、岩肌に肋骨を描いているように見える。
天井からは細く黄色い鍾乳石がびっしりと垂れて、汚れで黄ばんだ歯の群れのように並んでいた。

瑞希が息を呑んだ。

「…夜だと、やっぱり怖いね」

「昨日も入っただろ」

「昨日は明るかったし、帰るつもりで入ったから」

「今日は?」

「捕まらないつもりで入ってる」

「もっと真面目な言葉を期待してたんだが」

拓海は扉を内側から静かに閉めた。帰るときに音が出ると困るので、少しだけ隙間をあけた。

その隙間から、地下倉庫の常夜灯が細く入り込んでいたが、数歩進むとすぐに消えた。

鍾乳洞の中は、音が奇妙だった。

石ころを蹴ると、その音が反響する。
だが、ひそめた声は、岩肌に吸われるように細くなってすぐ消えた。

水滴の音だけが遠くで一定の間隔で響いていた。
目に見えない誰かが、水を垂らして時間を数えているみたいだった。

ランタンの光は二人の周囲をまばゆく包んでいるのに、闇を押し返しきれない。

照らされた岩肌だけが白く浮かび、その外側はすぐ黒く沈む。
足元には、浅い水たまりがいくつもあり、光を受けると丸い鏡のように天井の鍾乳石を映していた。
そこに靴底が触れるたびに、水面の中の白い牙がぐにゃりと波打って歪んでいく。

拓海の肩に瑞希が手を添えて、二人は奥へと進んでいく。
五年近くもここを使っていたので、地図を必要ともせず、暗闇を進んでいった。

「バッグ、ちゃんとあるよね」

瑞希が囁く。

「あるはず」

「はず?」

「昨日の時点ではあった」

「昨日の時点って、置いた本人が言うことじゃないよ」

「正確な表現だろ」

「こういうときだけ言葉に厳密になるの、ほんと嫌」

「大丈夫。ブログを書くときよりは雑だよ」

拓海は小さく笑いかけたが、すぐに口を閉じた。

鍾乳洞は、昼に入った時よりもずっと深く見えた。
細い通路は曲がりくねり、いくつもの脇道があり、人と同じくらいの高さの白い岩の柱が、ところどころで視界を遮った。
ランタンの光が届くたび、奥に何か白いものが立っているように見え、それが近づくとただの石だとわかる。

石灰で覆われたクリーム色の丸い石灰岩には黒い斑点がついており、それは遠目には、頭蓋骨に刺さった矢を抜いた傷穴のように見える。

壁の一部は薄い膜のように光っていた。
水が長い時間をかけて石灰を塗り重ねたのだろう。そこには木の年輪にも、凍った滝にも見える、大自然の紋様が刻まれていた。

瑞希が息の詰まった声を漏らして、不意に足を止めた。

「今、何か動かなかった?」

拓海も立ち止まる。

ランタンを向けると、壁のくぼみから小さな虫が這って逃げていった。
細長く白い体が一瞬だけ光に透けて、すぐに闇へ消える。

「虫だな」

「虫でも嫌」

「洞窟だからな」

「正論言わないで」

瑞希はそう言いながらも、しばらく壁のくぼみから目を離さなかった。
虫が消えたあとも、その髑髏の目のような虚ろな穴には、まだ何かの息吹が残っているようだった。

二人は互いにルートを確認しながら、迷うことなく進んでいく。
やがて二人がいつも使っていた横穴が見えた。

少し広くなった空間だった。
天井は家の二階くらいほどもあり、床は比較的乾いている。はるか天井には小さな穴があいており、昼間には地上の日光が一筋の流れとしてこぼれ落ちてくる。
奥には少し高くなった台地状の広い場所があり、その周囲をぐるりと囲むように、昔掘り返した跡がある。
夏の虫の声が聞こえた。

さらにその奥には、人目につきにくいくぼみが隠れていた。
外から見ればただの岩の窪みだが、二人には見慣れた場所だった。

拓海はランタンを低く下げた。

「…あった」

黒い防水バッグが、石の陰に押し込まれていた。

瑞希が胸を撫で下ろした。

「よかった」

「本当に」

拓海はバッグを引き出した。表面には白い石灰の粉がうっすらついている。

ファスナーは閉まっていた。
中身を確認するために少し開けると、タオル、着替え、モバイルバッテリー、五つのウェットティッシュ、そして見られた途端に男女二人がここで使うには異常すぎるものも、ジップロックの袋に小分けされて、無事に入っていた。

瑞希がその量を見て、無言になった。

「…多いよね」

「備えだって」

「だから、何への備えなの」

「緊急時のだ。ほら、洞窟では準備万端にしておかないと、だろ?」

「うん、まあ…って、意味が違うんだけど」

拓海はファスナーを閉じた。

「回収完了。戻ろう」

「うん」

二人は来た道を戻り始めた。

ここまでは予定通りだった。バッグはあった。誰にも見つかっていない。あとは地下倉庫へ戻り、何事もなかった顔で眠ればいい。

そろそろ地下倉庫の鉄扉が見えてきそうなところまでたどり着いて、拓海は足を止めた。

左右に分かれた道がある。
右手にランタンを向けると、きらっと蜘蛛の巣が光っている。
左手は、ぬるぬると灰色がかった色の穴が見えていた。
そちらは、時計台方面へ続く旧道だった。

昔、山仕事の者が使っていたという道。子どもの頃、瑞希に引っ張られて何度か入り、最終的に宗一郎に見つかって怒られた場所でもある。

いや、怒られたというより、拓海だけ、目から火花が散るほどのげんこつを食らった。

頭を押さえて泣きそうになっている拓海の横で、瑞希も大泣きしていた。
ただし瑞希は、自分が先に行こうと言い出したことを最後まで黙っていた。

拓海は通路の奥を見た。
ねじ曲がった闇が奥に続いている。

瑞希が気づいて、眉を寄せた。

「…何」

「少しだけ、向こうも見ておかないか」

瑞希の顔色が明らかに変わった。

「今、なんて言った?」

「本当に少しだけだ」

「違う。そういうことじゃない」

徐々に表情が険しくなっていく。

「バッグだけって言ったよね。私、言ったよね」

「本当に少しだけだ」

「そういう人は、絶対に少しじゃ済まない」

「時計台まで行くとは言ってない」

「当たり前でしょ。事件現場の近くなんだから」

瑞希の声は小さいままだが、硬かった。

「バッグを取りに来ただけ。これ以上はだめだって」

「裕治さんは、この山を調べてた」

「だから?」

「この道を、知らないはずは限らない」

鍾乳石から滴った水が、地面に跳ねる音が広がった。

「警察より、俺たちのほうがこの奥を覚えてるかもしれない」

「だからって、私たちが見る理由にはならない」

「あるよ」

拓海はランタンを握り直した。

「子どもの頃、俺たちはこの道を知ってた。大人たちより、奥の曲がり方を覚えてるかもしれない。もし何かあったら、明日警察に言える」

「今から探偵ごっこ?」

「そうじゃない」

「じゃあ何」

瑞希の目が、暗がりの中で強く見えた。
拓海はすぐには答えられなかった。

ただ気になっている。そう言えば済む。
だが、それだけではなかった。
焼けた裕治の死体が名を取り戻したあと、あの人が何を見つけようとしていたのか、頭から離れない。

書庫の紙片も、裕治が人に隠れてレンタカーを動かしていたことも、そして誰も知らないうちに時計台へやってきていたことも、全部がこの地下道の先へつながっている気がした。

そして何より、誰も知らないうちに裕治が時計台で焼けていたということは、誰にも見つからずに移動できるルートである、鍾乳洞を使ったとしか思えなかった。

瑞希はしばらく拓海を見ていた。
やがて、根負けしたように小さく息を吐く。

「条件」

「うん」

「時計台側の出口から外へは出ない」

「出ません」

「何か見つけても触らない」

「触りません」

「危ないと思ったら、私が注意する前に戻ること」

「戻ります」

「あと…絶対に、勝手に二歩以上、先へ行かないで」

「行かないよ」

瑞希はまだ不満そうだったが、最後には諦めたように頷いた。

「本当に、少しだけだからね」

「うん」

「その返事、信用してないから」

「信用しろよ」

「実績がない」

拓海は何も言い返せなかった。

二人は時計台方面の通路へ入った。

そこから先は、天然の穴ではなかった。
長い年月、誰かが整えた形跡がありありと刻まれている道だった。
壁のところどころに、人が通りやすいように鑿で削ったような平たい面があり、普通の身長の男が両腕を目一杯伸ばしても届かない幅がある。

まばゆいランタンの光が、通路の奥へ吸い込まれていく。

白い鍾乳石は減り、かわりに黒い岩肌が多くなった。水の音も変わり、どこか下のほうで細い水が流れている音がした。
通路は何度も折れ、突然広い空間へ出たかと思えば、またすれ違うのが難しい幅の通路になったりする。高低差はあまりないのが、幸いだった。

瑞希が何度か肩を壁にぶつけた。

「痛っ」

「大丈夫か」

「大丈夫。拓海、背中のバッグ、岩にこすってる」

「わかってる」

「ウェットティッシュのこと、洞窟に知られたよ」

「洞窟は喋らない」

「うちの洞窟なら、喋るかもしれないでしょ」

「怖いこと言うなよ」

二人の声が闇に吸い込まれて、引きつったように尾を引いて消えていく。
しばらく進むと、少し広い場所に出た。

天井が高くなり、ランタンの光が上まで届かない。黒い天井から、白い鍾乳石が細く垂れ下がり、逆さまの剣山のように見えた。
床には石筍がいくつも立ち、光が当たると、濡れた肋骨のように光っていた。

その中央に、浅い水たまりがあった。
水はほとんど動いていない。だが、ランタンを向けると、奥の闇を映して黒く光った。
淡く輝いた水面の中に、拓海と瑞希の白い顔が小さく揺れている。

瑞希がぼそっと言った。

「ここ、子どもの頃、来たよね」

「うん、覚えてる」

「この水たまりに、拓海が石を投げて、お父様に怒られたんだよね」

「お前が投げろって言ったんだろ」

「言ってない」

「言った」

「証拠は?」

「俺の記憶」

「拓海フィルター、かかってるでしょ」

拓海は苦笑した。
しかし、笑いは長く続かなかった。

そのでこぼこした広間を過ぎると、空気が変わった。
どこかから風が入ってきている。

ほんのわずかだが、洞窟の湿った空気とは違う、外の夜気の混じった冷たい匂いが混じり始めた。土、草、夜露が喉について、拓海は喉に手を当てた。時計台側の出口が近いのだとわかる。

瑞希も気づいたようだった。

「もう戻ろう」

「まだだ…出口までは行ってない」

「約束は出口から出ない、でしょ。出口近くまではいいって意味じゃない」

「わかってる。もう少しだけ」

「それ、二回目」

拓海は返事をしようとして、足元に目を落とした。

そこで止まった。

ランタンの光の中に、細い線が見えた。

湿った土の上を、一本の筋がまっすぐではなく、わずかに蛇行しながら続いている。幅は狭い。靴跡ではない。水が流れた跡とも違う。その線の両側には、かすれた足跡が二つ、三つ、崩れかけた形で残っていた。

瑞希もしゃがみ込む。

「何これ」

「車輪の跡…かもしれない」

「車輪?」

「一輪車とか、猫車みたいなやつ」

声に出した瞬間、二人は凍りついた。
遠くでは小さく、カエルの鳴き声が聞こえる。

拓海はランタンを低くして、跡を追った。車輪の跡はところどころ石に乗り上げて途切れている。だが、湿った土の上ではまた現れた。足跡もある。ひとり分か、二人分かまではわからない。だが新しい。古い足跡なら、もっと水や泥で崩れているはずだった。

瑞希が声を殺した。

「これ、警察がつけたものじゃないよね」

「わからない。でも、調べていたら、もっと足跡だらけに…」

「じゃあ」

「誰かがここを通った」

瑞希は、返事をしなかった。
ただ、ランタンの光から一歩だけ下がった。

二人にとって、鍾乳洞は慣れ親しんだ場所だった。子どもの頃の記憶、湿った石の時間が刻み込まれた場所だった。
だが、目の前の細い轍だけが、ごく最近に刻まれた時間の証拠として、ありありと残されていた。

「拓海」

「うん」

「戻ろう」

その声には、もう怒りがなかった。
怒れるほど、余裕が残っていなかった。
今度の声には、冗談がなかった。

拓海は轍の先を見た。

通路はさらに奥へ続いている。
肌を撫でる空気の流れが、はっきりしてきた。時計台側の出口が近づいている。
だが、この跡がどこへ向かっているのか、ここで見ないまま戻ることができるのか。

「もう少しだけ」

「だめって」

「触らない。写真も撮らない。見るだけだ」

「もう三回目だよ」

「明日、警察に言うためにも、何があるかくらいは」

瑞希は強く目を閉じた。
怒っているのではない。怖がっているのだと、拓海にはわかった。

「拓海の少しって、奥に行くほど長くなる」

やがて彼女は目をあけたが、眉尻は睨むように上がっていた。

「本当に、これで最後」

「うん」

「出口から出ない」

「出ない」

「何かあったら、すぐ逃げる」

「わかった」

二人は轍をたどった。

出口に近づいていくと、岩肌ははっきりと凹凸のある形が浮かんでいた。ランタンの光が岩肌に近づき、白い石灰の筋が目の前に迫り、黒い影がふらふらと蠢いている。足元はぬかるみ、靴底が土に吸いついた。

やがて、行き止まりに見える場所へ出た。

そこは一本道の突き当たりだった。
正面には荒々しい自然そのままの岩壁があり、人が通れる穴はない。
だが、天井のどこかから空気が流れていた。
細い風が細い隙間を通って、短く口笛でも吹くような気味の悪い音がかすかに聞こえた。

瑞希が拓海の袖をつかんだ。

「ここ…」

拓海は、地面を光で舐めるように、ランタンを動かした。

壁の右側、少し低いところに、木桶が転がっていた。
古びた木桶だった。
表面は色の濃い部分もあるが、皮が剥がれて厚みが薄くなっている部分もある。長年使われているものだった。

そして、最近動かされた形跡があった。桶の外側には濡れた土がついて、縁の一部が黒く汚れていた。
近くの地面には、真新しい土をかぶせたような場所がある。
その部分は周囲の泥よりも色が明るく、表面だけが不自然にならされていた。

拓海は膝をつきかけて、瑞希に止められた。

「今、触りそうだった」

「見ようとしただけ」

「同じ」

拓海はランタンを斜めから当てた。

土をかぶせた場所の端に、黒いものが残っていた。
黒く、細かい塵のようなものや、黒焦げになった布切れのようなものがある。
さらに奥を照らすと、岩肌のくぼみや、湿った土の隙間にも、黒い粉がこびりついている。さらに、焦げた木片のようなものも小さく見えた。

そして臭いもあった。

ごく薄いものだった。
鍾乳洞の湿った石灰臭に紛れて、外の青臭い土と水の匂いに紛れてはいた。だが、あの時計台の下で嗅いだ臭いを、拓海の鼻は覚えていた。

焼けたものの臭いだった。
油の臭いだった。

真珠色の灯影に、彫りの深い瑞希の顔が浮かび上がる。
その顔は、LEDランタンの光よりも白くなっていた。

「…何、これ」

拓海は答えられなかった。

裕治の死体は、首から上が黒く焼けていた。
顔がわからなくなるほど。
そしてここに並んだものが同時に並ぶことで、まるで数珠つなぎのように、ひとつの意味をとってしまう。

拓海は考えを振り払うために、顔を激しく横に振った。
それらをつなげたくなかった。
一定の論理性を持っているそれらのものをつなげた瞬間、ここが何の場所だったのか、想像してしまうからだ。

拓海は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

「帰ろう」

今度は拓海の言葉に、瑞希は頷いた。

そのとき、瑞希が何かを蹴飛ばした音がした。
その音に続いて、視界の中にきらっと光るものが転がるのが見えた。

拓海は光でそれを包むと、かがみ込んでそれを取った。

それは至って普通の、茶褐色の石灰膜に包まれた石だった。割れた一部らしい。
石灰膜には、鍾乳洞内の水が流れた痕跡の流線型が刻まれている。

拓海が全部を見ようと思ってまわしてみると、断面が異様だった。
断面は二層になっており、表面は茶色とクリーム色の混じった石灰岩で覆われている。
だがその中は、灰色でスポンジのように穴だらけの素顔が覗いていた。

「これ…軽石か?」

「うん。でも軽石って、ここにあるものじゃないよね」

「わかるのか」

「何年ここに来てると思ってるの」

瑞希は石の外側を見た。

「でも、表面に石灰の膜がついてる。昨日今日、誰かが落としたものじゃない。昔から、ここに置かれていたんだと思う」

「昔からここにあった?」

瑞希は、石の表面を見つめた。

「誰かが?」

「うん。かなり昔に」

ひんやりとした空気が、洞窟内を駆け抜けていった。地の底から水の流れる音が聞こえた。

二人はほとんど走るように来た道を戻り始めた。だが、鍾乳洞の中では走れない。足元は滑る。天井は低い。曲がり角のたびに、ランタンの光が壁に弾かれ、黒い影が二人の背後に跳ねる。

瑞希の呼吸が荒い。

「大丈夫か」

「大丈夫じゃないけど、歩ける」

「足元」

「わかってる」

しばらく無言で進んだ。

水滴の音が、さっきより大きく聞こえる。ぽつり。ぽつり。それが背後から追ってくる足音のように感じた。通路の奥に白い岩が見えるたび、人が立っているように見えた。ランタンを向けると、ただの石になる。

拓海は何度も振り返りそうになった。
だが振り返らなかった。

ようやく、さっきの水たまりの広間へ戻った。そこで一度だけ立ち止まる。
拓海はスマートフォンを取り出した。時刻は午前三時になろうとしていた。
瑞希がそれを見て、かすれた声で言った。

「三時…」

「長くいすぎた」

「どうするの」

「今日、阿部警部に言う」

「夜中に入ったことも?」

拓海は黙った。

言わなければならない。そんなことはわかっている。
殺人事件の証拠らしきものを見つけたのだった。
黙っているのは、どう考えてもまずい。

だがそれを正直に答えると、なぜ夜中に鍾乳洞へ入ったのかと、極めてまっとうな質問が飛んでくるに違いない。

防水バッグを回収するためだったと言えば、当然、中身を聞かれる。
宗一郎の耳に入る可能性もある。
警察に隠し事をしたことにもなる。
何より、瑞希があの噂好きな親族たちに蝕まれてしまうだろう。

瑞希が、小さく言った。

「全部話したら、終わるよね」

「いろいろな意味でな」

「でも、黙ってたら?」

拓海は答えられなかった。

瑞希は水たまりを見ていた。
揺れる光の中で、彼女の顔がいくつにも割れている。

「この家、ずっとそうしてきたんだと思う」

「瑞希」

彼女は顔を上げた。

「私たちまで同じことをしたら、駄目だよ」

拓海は水たまりの黒い面を見た。そこに、ランタンの光と、自分の顔が揺れている。情けない顔だった。

「大丈夫。きちんと言うよ。
子どもの頃、鍾乳洞を通って時計台方面へ行ったことがある。
裕治さんが山を調べていたから、あの道が事件に関係あるかもしれないと思った。
だから、調べたほうがいいんじゃないかと阿部警部に言う」

「嘘ではないけど、全部でもないね」

「まずは、警察に目を向けさせるんだ。それで鍾乳洞を調べてもらえば、あれはすぐに見つかる」

「でも、警部さんに深く聞かれたら?」

「そのときは…」

拓海は言葉を探した。

「そのときは、覚悟する。大丈夫、俺が殴られるだけで済むだろう」

「済まないよ」

瑞希は即答した。

「拓海が殴られて終わるなら、私はこんなに怖くない」

瑞希は黙っていた。
やがて、少しだけ息を吐く。

「拓海、そういうところあるよね」

「どういうところ」

「ぎりぎりまで誤魔化そうとして、最後は腹をくくるところ」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「残り半分は」

「最初から腹をくくれ、って思ってる」

拓海は苦く笑った。

「正論だな」

「でしょ」

瑞希は水たまりに映る自分の顔を見た。揺れて、崩れて、すぐに戻る。

「でも、絶対に今日、ちゃんと言って。全部は無理でも、警察があそこを見るように」

「うん」

「隠したら、私たちも同じになる」

その言葉は、低く、静かだった。

何と同じになるのか。瑞希は言わなかった。だが拓海には、なんとなくわかった。牧野家は、昔からいろんなものを隠してきたのかもしれない。
そして本家の人間は、それを見ながら、知らないふりをしているのかもしれない。

だからこそ、自分たちまで、見つけたものを暗闇へ押し込めてはいけない。

「明日、言う」

二人は地下倉庫へ戻った。

鉄扉の隙間から、常夜灯の黄色い縦筋が見えたとき、拓海は思わず肩から力が抜けた。扉をそっと押し開けると、発酵臭と根菜の匂いが流れ込んできた。人間の場所の匂いだった。

瑞希は倉庫の石壁に手をつき、少しだけ目を閉じた。

「…戻ってきた」

「うん」

「バッグは?」

「無事だよ」

「落としてないよね」

「さすがに」

拓海は背中の防水バッグを軽く持ち上げた。妙に重い。中身以上の重さがあるように感じた。

瑞希が、壁際に隠してある木箱に、探索用の服と靴を隠し終えたところで、二人は地下倉庫を出て、階段を上がった。

屋敷の廊下は、さらに静かになっていた。電灯の数は減り、柱の影は黒く太い。外では風が出ているのか、庭の木々がさらさらと鳴っている。

瑞希の部屋へ向かう角で、二人は立ち止まった。

「寝られるか」

拓海が聞くと、瑞希は小さく首を振った。

「たぶん、無理。でも寝た顔はする」

「それ、寝るより難しくないか」

「お嬢様業の基本です」

「俺には似つかわしくないな」

瑞希は少しだけ笑った。だが、その笑みはすぐに消える。

「拓海も寝て。ちゃんと話すんでしょ」

「うん」

「一人で勝手に行かないでね」

「行かない」

「本当に?」

「本当に」

「今のは、少し信用する」

「少しだけか」

「今日の拓海には、それくらいが限界」

瑞希はそう言って、自室の方へ歩いていった。
足音はすぐに暗い廊下へ溶けた。

拓海はしばらくその背中を見送って、それから自分の客間へ戻った。

部屋へ入ると、竹の葉影はもう畳に映っていなかった。
山の影に包まれているのか、窓の外は真っ黒で、室内の小さな灯りだけが低い机を照らしている。壁の馬具の絵は、昼間よりもずっと暗く、馬の目だけが光っているように見えた。

拓海は防水バッグを部屋の隅へ置いた。
中身を出す気にはなれなかった。出したところで、もう何も笑えない気がした。

布団に横になって目を閉じると、鍾乳洞の突き当たりが浮かんだ。

木桶があり、掘り返した真新しい土があり、黒いすすがあった。

拓海は寝返りを打った。眠れる気はしない。
それでも、少しでも休むために、目を閉じているしかなかった。